レキの毛糸玉  まだクラモリが街にいた頃、レキはクラモリと一緒に毛糸玉を作った事があった。  まだ冷たい風のひとつも吹かない季節だった。冬支度は早く始めるものだからと、クラモリが冬物を編み始めようと言い出した。  体の弱い彼女には時間のかかる作業だったのだろうと思う。ネムの助けがあったとはいえ、年少組もそれなりにいた。手帳や人づてでまかなえる物ばかりではないし、お古頼りなのでどうしたって足りないものは出てくる。今もあの頃も変わらず、その辺は工夫して補うのが灰羽というものだった。  レキとネムとクラモリ、三人で古着屋に材料を探しにいった。 めったにない事だが、古着屋で使い古しの毛糸がまとめて放出される事があるらしい。交渉次第なのよ、とクラモリは珍しくほんの少し悪い顔で笑った。 『交渉』(その間、レキ達は店で一番可愛い服を探すように言われた)の末、クラモリは後光の差すような微笑みで、靴箱一杯の毛糸の束を抱え戻ってきた。 「もう少しあってもいいのだけれど……」  クラモリが店主に目を向けると、彼はぎょっと後ずさりして壁にぶつかり、カウンターの中に沈んでしまった。  ……何だかさっきより無精ひげが伸びていた気がする。気のせいかもしれないとネムは思った。  結局、虫食いや染みのある冬物衣類を分けてもらえる事になった。そのまま着るには見苦しくても、ほどけば立派な毛糸だ。麻袋に詰められた衣類の地層から、レキが毛糸の編地を引っ張り出してみれば、袖からびよーっと伸びて現れたのは大人用、メンズのもたついたセーターだった。  クラモリは笑って手帳を切り、そのセーターと毛糸と、二人がそれぞれ選んだ『一番可愛い服』を持ち帰った。  レキとネムは思いがけないお土産にはしゃいで、クラモリの『交渉』の事などすっかり忘れてしまった。とっておきをいつ着ようかと笑いあい、クラモリはにこにこしながらその後をついていく。  クラモリは穏やかではあるが、立派に芯の通った大人である。  そしてまれにだが、なかなかの策士でもあるのだ。  ネムが妙に楽しそうに、勢いよくセーターをほどいていく。「ショージを破っていい時みたい!」とネムは言っていたが、レキはショージが何なのか知らないのでぴんとこない。ネムの興奮がおさまったら聞いてみようと思った。  教えられるまま、レキはほどいた糸を両手に巻き取る。長く残した糸の端が、腕の動きにつられて揺れている。  クラモリが、浅い藤かごに毛糸束と編み道具を集めて床に置き、椅子を引き寄せた。  大きな輪にした毛糸を、今度はクラモリが丸く小さく巻き取っていく。レキが手を動かし損ねるのを焦らせもせず、クラモリの手はするすると不思議にきれいな球体を作り出す。  腕が疲れると、レキとネムが交代した。輪を崩さないよう手渡すのも何かのゲームのようだ。暖まった毛糸が腕を撫でるのがくすぐったくて楽しい。  ネムとふざけながらも、レキは姿を変えていくセーターから目が離せない。野暮ったかった服が姿を変えて、美しく整えられていく。再び何かに姿を変えるための、素材になっていく過程。 「誰かが苦労して編んだものだから、ほどかずに着られればいいんだけれど」  一度編みこまれた目はなかなか消えない。強く細かな波を作り、玉にされてもまだ残っている。 「立派に仕立て直させてもらいましょう、ね?」  クラモリはその毛糸で、耳あてと靴下を編んだ。二人も地道に手伝った。  毛糸はかなり渋い色だったが、クラモリが手編みのレースを縫い付けると、大人の女性が使うような魅力が出て、女子灰羽達の胸をときめかせた。  男子の分はどうしようかと思案していたところ、部屋になだれ込んできた当の暴れん坊集団に見つかってしまった。まだ完成していないという暇もなく、かごからめいめいの分を取り出した小さな紳士達は、『あっぱーくらすのじょうしつかん』とかいうものを感じてくれたらしい。  まあ、シンプルなのがよろしい、という見方もある。足の速い紳士達の背中に、ネムが「なくしちゃだめだよー!」と声を上げた。  他愛もない日常の、そんな一時の話だ。  そんな一時の話をレキが思い出したのは、久しぶりに安らかな、クラモリの夢を見たからだった。  ……正確には、お馴染みの夢も見た。毛穴のすぼまるような恐怖に跳ね上がった直後、レキは背骨をしたたか打ち付け、肺の空気を一気に吐いた。深夜の床の冷たさが染みる。  ベッドから転げ落ちたのに気づくまで、数分かかった。悪い夢の名残にレキは震え、体を掻き抱くようにしてじっと耐えた。吐息の白いのに気づいて、その蒸気の消える場所を探すかのように天井を見上げた。  この世に誰もいないような、ひとりぼっちの夜中の空気だった。  窓の外は雪だった。寝付けないレキは、椅子に引っかけていた上着を取り上げた。  さく、さく、と雪を踏み進む。知らぬ間に随分と積もったものだ。明日の雪かきが大変だな。  くわえタバコで空を見上げると、視界は深い深い青みがかった黒と白で、目がくらむようだった。  雪は大層な勢いで降り続いている。風はないから激しいという気はしないが。  長く真上を見ていると、真っ暗な空から白いものが次々わき出てくるようにしか見えなくなり、またやがて、自分の方が空に吸い込まれていくような気もした……。  レキは真っすぐに、空に手を伸ばしてみた。指の先まで気を張って、どこか爪先立つように。  雪の「降り始め」がどこなのかは、目をこらしても分からない。見えないほど空高い、高い雲から生まれてくるのだろう。  レキは少し、指を緩めた。 「随分遠くにいるんだな……クラモリ……」  祝福のある灰羽は、いずれ光になって空に消える。クラモリも、あの大きく優しい心にふさわしい、清らかな場所にいるのだろう。きっと、そこで雪の生まれるのを、彼女は微笑んで見ているのだ。  クラモリが恋しい。でも、せめてそんな場所で暮らしていてくれるなら。  ……甘ったるい事を考えてるな。それに滑稽だ。  少し気が弱ってる、とレキは乱暴に目をこすった。傘も差さずに雪まみれで、何やってんだか。ふざけたようにわざと大げさな息をつくと、少し楽になったような気がした。  部屋に戻ったレキは明け方に寝付き、そして浅い夢を見た。クラモリがとびきり優しく笑って頭を撫でてくれる夢だった。  レキが黒い羽の得体の知れなさや、人の目に負けそうになって動けなくなった時にしてくれたような、特別な時の温もりだった。  良かったとレキは思った。彼女が、一緒に暮らしていた時のような、日常の優しさで夢に現れたなら、今頃隣が寂しくてかなわなかっただろうから。  あの耳あてと靴下、どこへやったんだったかな。大切にしてたはずなのにな……。 「ああ、あのグレーの毛糸でしょう? あれなら、座布団の模様づけに使ってから、ピンクッションの詰め物にしちゃったけど」 「ピンクッションの?」  ネムはのんびりと、年季の入った裁縫箱を持ってきてテーブルの上で開いた。  はい、と、まち針がぶっすぶすに刺さったサボテン状の物体を差し出され、レキは思いきりよく引いてしまった。 「なあに。もうすっかりすりきれちゃってたし、さすがに繊維から毛糸により合わせるのは無理だと思って……」 「そういう問題じゃない! 何でああいうのをリサイクルしちゃうんだよ、三人で作ったものなのに! ネムだってクラモリの手作りだーって言ってたじゃないか! 靴下なんか、毎日履こうとしてクラモリに止められてたろ?」 「あ、あれは自分できちんと洗うつもりだったんだから! じゃなくて。もう耳あても靴下もサイズが合わなくなっちゃったでしょ? 年少組にあげられるほど数もないし、だからって、お古のお古を街の親御さん達にあげるわけにもいかないじゃない。まだその頃は糸も丈夫だったから、しまい込んでおくよりはいいと思ったのよ」  あー、確かにいい座布団だった。ゲストルームの椅子に付けてあったあれな。くたびれたから別のに換えてあるけど、起き抜けに座っても尻が冷えない、いい座布団だったなー、あーあー。  脱力したレキがふと目を上げると、ネムが少し落ち込んだ顔をしている。 「勝手な事してごめんね」  ああ……少し、こだわり過ぎていた。 「いいんだ、もう。役には立ってたんだし」 「クラモリもね……きっとこうするだろうと思ったの」  穏やかなネムの言葉に、引っかかっていたこだわりが溶け始めた。  本当に、クラモリなら合わなくなった編み物は、またほどいて仕立て直してくれただろう。  何度でも、皆が使えるように。 「座布団の模様、なかなかだったでしょう?」  しょげていたネムが、もう得意げに言う。 「悪くなかった」  濃紺にほの白く浮かび上がる、灰色の雪の結晶。  あの毛糸は、クラモリと作ったから特別だったのだ。思い出を持っていれば、いい。  まだきっぱりと割り切るのは難しい。だが物に固執して失うものなど、良い灰羽であれば無いだろう、とレキは思う。いつか、クラモリのところへ。良い灰羽であろうとし続ければ、いつか。  レキは、そこにネムがいるから微笑んだ。