幸せの果実 最終話 小さな幸せ・光る果実 【砂粒ほどの】  サユキへ  あなたがこの手紙を読んでるころ、私はもうここにはいないでしょう。ずっと前から誰かが呼ぶ声がしていたのです。私には、その声に抗うことが、できませんでした。  もう、会えないのでしょうね。遠い向こうに行ってしまっても、あなたは一人でやっていけますよね。サユキはとっても強いから。いつも、あなたを見ていた私が言うのだから、間違いありません。  私がむかえるのは、おそらく巣立ちの時ではないでしょう。ですが、別段怖いといった気持ちはないのです。ずっと前から決まっていたことですし、覚悟は出来ています。  私はいくつも罪を犯しました。罪憑きになってしまうのは、至極当然のことです。まず、嘘をついてしまったこと、謝らなくちゃいけませんね。といっても、バレバレだったかもしれませんけど。鈴の実の市があった週。一日だけ、オールドホームを抜け出しました。体調は問題ありませんでした。むしろ、今までで一番元気だったかもしれません。先がないと、気持ちが吹っ切れていたからでしょうか。勝手に抜け出して、ごめんなさい。あとで、みんなにも伝えておいてください。  二つ目は、すこし思い違いをさせてしまったことです。私は、あなたと、オールドホームのみんなと一緒にいることが、苦痛でなりませんでした。私の羽は黒くて、みんなはきれいな灰色の羽。なんで私だけと、いつも胸の内にわだかまりを抱いていました。なぜみんな私に優しくするのでしょうね。心の中は嫉妬の思いにまみれているのに。  思えば、生まれる前から、私は罪に侵されていました。まだ断片ですが、思い出せます。夢の中で、サユキと共にいたことを。あなたと一緒にいることが苦痛で、私は一人になったのですよ。自分勝手ですよね。  夢の中で見た花、徒花(あだばな)とでもいうのでしょうか。きっとあの花が、私を誘っているのでしょう。  最後に、サユキなら、鈴の実の意味はもう知っていますよね。念のため、あらためて記しておきます。  ごめんなさい。  さようなら。 悼ミより 追記  この手紙の下に、紙束がありますが、そこに書かれてること、みいんな嘘です。    * * *  容赦なく降りつける吹雪の中、灯りもつけずに、あたしは、雪原を駆け抜ける。  足跡は新雪にかき消され、たどることはできない。だけど、あたしにはわかっていた。セツカがどこにいるのか。  雪の片ひとつひとつに、セツカの想いがつめこまれているような気がした。多くは来るな、という叫び声だ。しかし、その中に、今にも消え入りそうな声で、助けてと聞こえた。 (あれは、嘘だ)  セツカの、これまで過ごしてきた日々、大切な時間すべてが嘘だったなんて。そんなはずない。  人の心って見えないけど、それでも、たしかな想いってあるもの。こちらにまで伝わってくるほどに、強い気持ち。それをすべて隠すことができるなんて、言わせない。  手紙の後ろには、セツカの日記が束ねられていた。何十枚もの厚い紙束に、今までの日々のことが、つぶさに記されていた。  それを、たった一言で、なかったことするなんて、できるはずがない。  あたしは、あの手紙の一字一句を思い出しながら、セツカと過ごしたグリの街での日々を頭の中で描いていた。    * * *  今日から日記を書き始めたいと思います。なんだか文字がうろ覚えで、汚いですね。  あたらしい服を買ってもらったついでに、ラッカに頼んで、あとでこっそりと筆記用具を買いそろえました。オールドホームのみんなはとても優しくて、みんなと一緒にいれる時間が、私はとても好き。  罪憑きとして生まれてきて、体調も悪くて、みんなに心配をかけてしまっていることが、心苦しくてなりません。……  すこし前の話になります。ネムが巣立ってしまったことです。  祝福された灰羽は壁を越えるのですって。喜ばしいことなんだと、ラッカが言っていました。でも、巣立ちのことを話すラッカは、どこか悲しげで、目頭がかすかにうるんでいたように見えたのは、気のせいではないでしょう。  私も、なんだか夢のようで、まだ信じられません。今まであたりまえだった風景に、穴があいてしまったようで……  またこれもすこし前の話です。でも、書いておかないといけませんね。  灰羽連盟に呼ばれ、話師のもとへ訪れたときのことです。私は話師の謎かけに対し、なんと答えたか覚えておりません。胸の奥底から、勝手に言葉が飛び出して、私が私でなくなったような、そんな気がしたことだけはたしかです。  私が気を取り戻したとき、サユキが必死で否定していました。罪憑きなんかじゃない、私を守ってくれる……  うれしくて、涙がでそうでした。  でも、心の中では正反対の思いがくすぶっているのです。それが次の瞬間にはなくなっていて、なぜかみんな悲しげな表情をするのです。  私はなにかがおかしいみたいです。私の中に私でない誰かがいるのかもしれません。  罪憑きって、こういうことなのでしょうね。私はいずれ……  オールドホームには、ネムのほかにも、巣立っていった灰羽がいたといいます。それ以前にもいたのでしょうけど、ラッカに聞いた話だと、昔はあまり灰羽がいなかったとか。あくまでオールドホームでの話ですが。寮母さんにきけば教えてくれるかしら。  クラモリ、クウ、レキ。巣立っていった灰羽の名前です。なんだか不思議な響きですね。名前を聞いただけでも、なんだか温かい衣で包まれているような、そんな気持ちになるのです。  このゲストルーム、ほかにもオールドホームのあちらこちらに、とても綺麗な油絵が飾られています。レキさんが描いたと、ラッカが教えてくれました。絵の中に、私の見たことのない灰羽が、眠っているような気がしてなりません。……  すこし胸が痛むこと、それでいて心温まるできごとがありました。カナの仕事場、時計屋の親方さんが、グリの街の時計塔をあたらしくしたのです。外から見ても、なにが変わったのか分かりません。ですが、時を告げる鐘が鳴り響くと、すぐにその疑問は吹き飛んでしまいます。街が歌っているのです。それは楽しそうに、ときに憂いをこめたような不思議な音色。私たちの心を投影してるのかもしれません。  ここからでも、空気が澄んでる日に窓を開けると、遠くから美しい歌声が聞こえます。耳を澄まして、目を閉じて、いつまでも聴いていたいほど、街の歌姫は見事に、街中の観客に、音の贈り物をしてくれます。  親方さんは、足を痛めてしまい、もう仕事ができないとか。でも、カナはそれでしょげるような灰羽ではありません。親方を超えて見せるんだって、意気込んでいます。  頑張って、カナ。……  サユキの仕事が決まりました。ほんとうに……うれしい。自分のことのよう。  ああ、だめです。これ以上言葉が浮かんできません。  おめでとう。ほんとうに、おめでとう。  何度も伝えた言葉ですけど、とても言い足りません。  はやく身体をよくして、喫茶店にいけるようにしないと。たくさん通って、たくさん注文して、てんてこまいにさせてやろうかな。  私も、頑張らなくてはいけませんね。これまではサユキの分も、と考えていましたが、これからは、サユキと一緒に、です。……  私とサユキの部屋が決まりました。初めて入ったときは、ボロボロでとてもじゃないけど住むことはできませんでした。でも、もしここが私たちの部屋だったらなと、いつも思っていました。なんだか、とても懐かしい思いがするのですもの。  それもそのはず。私たちの生まれた部屋だったのですから。とても大きなまゆが二つもできて、お部屋も大変だったことでしょう。  補修がなされ、生まれ変わった部屋は、廃墟のようだったあのころのおもかげはないのですが、壁の一部分だけ、思い出としてそのままにしてあります。すこしへこんでる壁を見ると、なんだかおかしくて、自然と笑みがこぼれました。  サユキとの距離が近くなって、これからきっと楽しい日々が過ごせることでしょう。……  季節が過ぎるのは早いものですね。  もうすぐ冬が訪れるのでしょう。空気は急に冷たくなって、上衣なしでは凍ってしまいそうです。  冬の気配と共に、誰かが呼んでいる気がします。それは心の中に直接流し込むように「こっちにおいで」とか「サユキといるのはつらいだろう」とか、甘い声で囁くのです。  答える気などないのですが、声は日を追うごとに大きくなり、頻度も増し、また私が私でなくなるあの感覚に、たびたび襲われるようになりました。前は一週間に一回くらいだったのが、今は毎日のように、白昼夢に襲われ、意識がなくなります。  枯れた花の中に私が横たわり、なにか恐ろしいことを考えているのです。  ですが、それが正しくないと、私には言えません。  勇気がないのかもしれません。  心も身体も弱くて、人がいないと、生きていくことも出来ない。  どうしてみんな優しくしてくれるのでしょう。  優しさが、つらい    * * *  セツカの日記はそこで途切れていた。読んでるうちに涙があふれ、幾滴もの雫が紙面を濡らした。最後のほうの頁では、あたしが涙を零す前から、濡れた跡があった。  その文字の連なりよりあふれる、セツカの想いが、偽りであるはずがない。 「あたしが……信じなきゃ」  風の丘の上を見やる。あの向こうにセツカがいる。  除雪をほとんどしていない丘には、人が通った跡がくっきりと残されていた。  雪が深い。踏み固められてない雪に、何度も足で穴を開けてしまう。そのたびに、長靴のなかに雪が入り込んで冷たい。気は急いても、なかなか前に進むことができなかった。  容赦なく吹き荒れる吹雪は、あたしが来るのを拒んでいるかのようだ。  凍てつく寒さに、身体の芯まで冷えていくのを感じる。  早く、迎えにいかないとなのに、なんと頼りない足取り。 「セツカ……セツ……カ……」  あたしはかすれた声で呼びかける。風音にはばまれ、自分ですら喋ってるのかどうかわからない。こんな声が、届くわけがない。  涙が零れる。頬に幾筋か細い川が伝う。 「助けに……きたんだよ。そんなところにいちゃ、寒いでしょ。セツカ……答えてよ」  しぼりだすような声に、答えるものはいないと諦めかけたとき、  ――こないで……。  セツカの声が、頭の中に直接注ぎ込まれるように響いた。 「そこに、いるんだね」  いつの間にか、あたしは夢の中にいた。寒いのは相変わらず。だけど、雪原は普通に歩けるくらい、踏み固められていた。  セツカの声、そういえば今日は一回も聞いてなかったっけ。単純なものだ。拒む一声でさえ、あたしの心に火を灯し、再び歩む力が湧き上がってくる。  雲が落下してきたような大雪の中、あたしは迷いなく歩く。  夢の中、歩を進めるたびに、どこか懐かしくて、悲しい気持ちがこみ上げてきた。この雪原は、繭の中でみた光景とまるで同じ。違うのは、セツカがいないことだけ。  セツカ……今なら分かるよ。  あたしは誤解していたんだ。あたしが携えるのは、いくつもの砂粒の幸せ。だけど、それだけではやはり大きな幸せにはならない。小さくて小さくて、気づけもしないんだから。  話師が嘘をついていたってわけじゃない。彼は言っていた。助言を与えることしかできないと。  答えを探すのが、あたしの役目だったってこと。  あたしとセツカをつなぐ名前。  不思議だね。今まで迷ってたのが嘘のように、はっきりとわかるんだ。  雪の帳に、セツカの影が小さく浮かび上がった。 「セツカ……やっと見つけた」 【徒花】  私は、狭い水槽の中に捕らえられた魚。世話をしてくれる人もおらず、水は一度として替えられることがない。  心という水槽の中は、すこしずつ黒く濁り、淀んでいく。  逃げることができなくなった私は、やがて、息の根を止める。  水面のすぐ近くで、必死になって、かすかに残った酸素を求める。命を紡ごうと、足掻くが、砂時計の砂が落ちるように着実と、わだかまりの心は手を広げる。私を底に引きずりこもうとする手は、今にも足元をつかもうとしている。  いつか見た夢の中に、私はいた。絶え間なく降り続ける雪。まるで白い天井が降りてきて、押しつぶされようとしているみたい。  苦しそうに空を舞い、懸命に重力に抗って、しかしやがて地面に吸い込まれる雪の片。鳥のように再び飛び立つことはない。  私も、あの雪の一片とおなじだ。飛ぶことのできない鳥は、ただただ落ちるだけ。  黒く染まりきった羽はどうなるのだろう。腐って落ちて消えてしまうのかも。  助けは来ない。来ても、もう間に合わない。  サユキが、息を切らして走ってくるのがわかる。 「こないで……」  呟くが、彼女を留めることができないことを、私は知っていた。  昔から、サユキは強情だものね。  あれっ? 昔って……。  ふと懐かしい想いがこみ上げてきたが、すぐに幻と消えてしまう。  心の闇が、私の記憶を暗雲のように覆っていく。黒い舌がのび、私であった証を、飲み込んでいく。私がどこにいたか、一緒に過ごしたみんなのことも、すこしずつ、ろうそくのろうが溶けていくみたいに、消えていった。  そして、サユキのことも……。  二匹の蛇が、互いの尾を喰らう絵を見たことがある。罪の輪とは、この二匹の蛇で、私は彼らの作り出す輪の内側にいる。  自らの命など顧みず、さらに相手の尾を飲み込んでいき、輪は次第に狭まっていく。私という、たった一人の獲物を喰らうために。  罪の輪は固く、あちらこちらに自らがつけた鍵がかけられている。  あなたに開けられるかしら。  遅れてきた、小さな灰羽を見やり、私は冷笑を浮かべた。  さあ、はじめましょう。  実をつけることなき、徒花の宴を。 「セツカ……助けにきたんだよ。ねえ、帰ろう」  小さな灰羽が、息を切らしながら走り、近寄ろうとする。しかし、突如生え出た茨の壁に、足を止める。赤に白に黄に……所狭しと極彩色の薔薇が咲く。 「セツカ? だあれ、それ?」 「君の名前だよ」 「禍を育てる灰羽のこと?」 「違う!」  薔薇の花は溶けるように枯れ、倒れていく。  彼女はその残骸を乗り越える。だが、すぐに巨大な向日葵が四方八方を囲み、彼女を見下ろす。種はない。真ん中に大きな谷ができ、巨大な黒の眼がのぞいていた。 「セツカはもういないわよ。あなたの知るセツカはね」 「そこにいるじゃないか」 「ねえ、あなた。枯れてしまった花は、花といえる?」  子孫を残す術を持たぬ花は、天から光を授かると信じ、屹立(きつりつ)するが、やがてそれが叶わぬと知り、茎を折って地面に還る。 「枯れた花を、生きている花と同じように、あなたは思うことができる?」  言葉は禍の種となり、あらたな徒花を生み出す。芽吹いたと思えば、時間を早回ししたみたく、瞬時に育ち花咲かせ、老いて枯れては花散らす。  春夏秋冬の花弁が入り混じり、毒々しく雪原を彩っていく。花の片は、雪に触れては黒く染まる。 「あなたの知る雪の花は、もう枯れてしまったわ」  蔓がのび、枯れては新たな蔓がはうように覆い、私を包み込んでいく。 「あまりの寒さに耐えられなくなっちゃったのかしら。ほんと、弱弱しくて笑っちゃいそう」  小さな灰羽はもう見えない。 「無駄よ。もうなにもかも」 「あなたは、来るのが遅かった。いえ、たとえもっと早く来たって、なんにも変わりはしなかった」 「もう帰りなさいな。ここにいてどうなるの?」 「帰れ」 「消えてしまえ!」 「もう、私に……かまわないで」 「あなたが、もぉっと憎くなっちゃうから」  花の檻は隙間なく、中には私一人だけ。  彼女の声は届かない。  嗤(わら)い声がむなしく響く。  またひとりぼっちになった。  寂しくはなかった。  寒くもない。  枯れた花が、枝が、蔓が、その手をのばす。  もとが何の花かさえ分からない。  臭気を伴った徒花の口が、ゆっくりと、私を飲み込もうとしていく。 【待つもの、信じるもの】  窓がガタガタと音をたて揺れる。風が吹き荒れ、うなるような声をあげていた。まるで空が怒り狂って暴れているみたい。こんななかでも眠れるんだから、子どもってすごい。  カナはさっきから、ゲストルームの端から端へ、落ちつかなげに、往復運動を繰り返している。しきりに懐中時計を取り出しては、「遅い」と呪文のようにぶつぶつ呟いていた。  わたしとヒカリは、椅子に隣り合って座り、窓の向こうで雪の片が踊るのを、じっと見つめていた。 「よく眠れるよな。あいつら」  ゲストルームの片隅で、雑魚寝している子どもたちを見ながら、カナがぼやく。 「カナも寝れば」  あきれたようにヒカリが言った。 「あたしがこどもだってか」 「こどもじゃないなら、静かに待ってなさいよ。そんな怖い顔してたら、帰ってくるものも帰ってこなくなっちゃうわよ」 「へいへい」  カナは不満げな顔をして、私とヒカリの向かいの椅子に腰かけた。 「しょうがないよ、ヒカリ。わたしだって、不安……」 「わたしは信じてるもの。あの二人なら絶対帰ってくるって。だって、そうするしか……わたしたちには待つことしか、信じることしかできないんだから」  しぼり出すような声で言うヒカリを見て、わたしは胸をつかまれるような心地がした。  嵐は収まる気配を見せない。オールドホーム自体がかすかに揺れ、小さな地震が続いてるみたいだった。 「なあ……やっぱり迎えに行ったほうが――」 「だめよ」  カナが言うのを、ヒカリがぴしゃりとさえぎる。サユキが飛び出し、カナが真っ先に追いかけようとしたのを止めたのも、ヒカリだった。 「どこに行ったかわかるの?」  ヒカリが決まり文句のように言うと、カナは押し黙る。彼女も、うすうすと理解しているのだろう。あとは二人に任すしかないと。自分にできることは何か、探しても見つからない。そのもどかしさは、私も痛いほどわかる。  ヒカリとカナは、互いに不満げな視線を交わす。喧嘩するほどなんとやら、というが、今くらいは、穏やかな雰囲気でいてもらいたいもの。 「ねえ」と私は提案する。「二人が帰ってきたら、多分すごいお腹すかせてると思うの。だからね、二人のために料理つくったらどうかなって。とびきり豪華なの」  ヒカリが手を打って、「そうよ」と大きく頷いた。 「いっつもみんなすぐに寝ちゃうから、いつの間にかお祭のあとのお祝いがなくなっちゃってたし」 「ええ、でも二人帰ってくるまで、どれだけかかるかわからないんじゃ」 「だったら、遅れた分だけ、お仕置きとして、お腹壊しちゃうくらい食べさせちゃえばいいのよ」  ヒカリが言うと、「なるほど」とカナはいつもの元気を取り戻した。 「よしきた。じゃあ、あたしは景気よく鐘を鳴らして」 「子どもたちが起きちゃうからダメ!」  いつもの二人に戻って、自然と笑みが浮かんだ。  結局、豪華な料理のかぐわしい匂いにつられて、子どもたちが起きてしまった。 「なんだろ、この匂い……」「ずるーい! あたしたちにないしょにして」「ぼくもたべさせて」「わたしもー」「まちきれないよー」  と、いつの間にやら、てんやわんやの大騒ぎ。 「これじゃ、ちょうどいい量になっちゃうね」  食器を運びながら言うと、カナとヒカリが「ほんとだ」と口をそろえて笑った。  ふと、窓の外を見やる。風はさらにつよくなり、時折、ヒュウと鳴いた。 「おーい、ラッカ。なにやってんだ」  手を止めていた私をみて、カナが声をかける。「なんでもない」と答え、皿をまたカチャカチャとならす。  セツカ、サユキ。いつでもよいから帰っておいで。私は心のなかで、この思いが届きますようにと祈った。 【幸せの果実】  枯れた花の檻が、眼前に立ちはだかる。腐りはて、触れると簡単に折れ、溶けたみたいに地面に横たわる。  あたしはまだ信じられなかった。セツカの一言一言が、頭のなかでぐるぐると渦を巻く。  セツカではなかった。あたしの知ってるセツカでは……。  ほんとうに、もうなにもかもが手遅れだったの?  だとしたら……。  あたしは振り返ることはなかった。  終わったなどとは思わない。諦めることなどできない。  果てるなら、セツカと一緒がよかった。孤独に、耐えられる自信がなかった。  海を泳ぐように、花の壁を掻き分け進む。茎は面白いように道を開けていった。しかし、またすぐに新たな花がのび道を塞ぐ。枯れた花の残骸が、嘲笑うかのように、山となりそびえる。いや、ほんとうに嘲笑しているのだ。  甲高い声で、花々が震え、笑っている。数え切れない嘲り声。重なり、こだまし、不協和音を奏でる。  その声は、どこか苦しんでるような色を含んでいた。  なおも、あたしは前に進む。しばらくすると、花の檻、その核へとたどり着いた。黒き茨が、蔦が、交差して殻をつくっていた。その隙間から、かすかにセツカが見えた。うつろな目でこちらを見つめている。 「セツカ!」  あたしは呼びかける。セツカは口を閉ざしたままだった。  今まであたしを押し戻そうとしていた花が、後ろからも生え出し、あたしを囲んでいくのが分かる。構うものか。逃げ道など、必要ない。 「セツカ! 返事をして!」  幾多もの、種子を抱くことなき雌しべが、あたしを見つめている。輪は徐々に狭まっていく。  あたしは檻をつかみ、叫ぶように呼び続ける。  茨のとげが突き刺さるのがわかる。こんな痛み、わけない。彼女が抱いた苦しみと比べれば。  腹の底から、すべてをしぼりだして、あらん限りの声でまた呼びかける。 「セツカ! 応えてよ! お願いだから……ねぇ、帰ろう」  息が切れそうになる。声がかすれて、彼女に届いているもわからなかった。 「せつ……か……」  指先から赤い水がたれる。手がかじかんで、痛みは感じられなかった。  と、そのとき、 「私なんて、助ける価値もない」  囁くような声が聞こえた。ふっと、花の笑い声が、豪雨が降り止むように収まった。 「私は罪を持った灰羽だから」  連盟寺院に訪ねたときも、セツカは同じことを言っていた。  セツカの声に、絶望の色はなかった。今にも消え入りそうな、すべてを諦めてしまった人の声だった。  それでも、 「やっと、こたえてくれたね」  あたしは微笑む。 「そんなこと、ないよ。セツカに罪なんてない」 「私の名前は悼ミ。禍を育てる者。そうなのでしょう……」  セツカに、あの札を見せた覚えはない。では、なんで彼女は知っている。  あたしは、はっとした。そうか……あの名前は、 「セツカが考えた名前だったんだね」  首を振り、あたしは言う。「違うよ」と。  セツカの名前は、そんな名では決してない。  心の中で、一つの答えが咲いた。  あたしが名づけてあげる。 「『晢果』。光る果実。それが、あなたの名前」  そしてその名は、 「なんで気づかなかったんだろう。同じ夢の中にいたのに」  名前の持つ意味が一つだけというのが、そもそもの間違いだったんだ。 「あたしの小さな幸せと、セツカの光る果実 『幸せの果実』  それが、あたしたちの名前の、本当の意味」  あれっ。変だね。なんで涙がこぼれるのだろう。 「幸せの果実……」 「そうだよ。ごめんね。あたし、セツカがいきなり変わってしまったのかと思った。でも、ずっとセツカはセツカのままだったんだね」  涙の粒が地面に吸い込まれる。枯れた花に触れた瞬間、花は淡い光を放った。  もとある色を取り戻し、光は波紋が広がるように伝っていく。  花は実をつけていた。  蔓と茨の檻が、扉を開くように隙間をつくる。 「こないで!」  間に阻むものがなくなり、セツカは叫んだ。  彼女はおびえていた。  あたしは、一歩一歩彼女のもとへと近づいていった。  もう、苦しまなくていいんだよ。      *  私は真っ黒な夢の中にいた。光という光が闇に食べられてしまったみたい。ここがどこかも、私自身が本当に存在することさえ確かめられない。  声だけは、かすかにだけど聞こえた。時折空から降ってくる。誰の声だっけ。  ――晢果……。  そう……それが私の名前なのね。  だけど、光は既に消え、果実が落ち、種を芽吹かせる地面もない。  涙がこぼれたような気がした。悲しいからでも、苦しいからでもない。なんでだろう。声が、彼女が呼んだ名が、ひどく懐かしく思われるのは。  ――幸せの果実。……あたしたちの名前の本当の意味。  また声が降りてくる。  幸せの果実……。  その名の響きに、心の中にぽっと灯が灯されたような気がした。また目頭が熱くなる。  黒い空から落ちてくる声も、涙を含んでいるのが分かった。いや、本当に泣いているんだ。  額にポツリと雫が当たる。見上げると、綺麗な星粒が落っこちるように、ひとつ、またひとつ、水滴が線をひく。  かすかな光なのに、闇に溶けることなく、私の元へと吸い込まれ消える。  ――ずっとセツカは、セツカのままだったんだね。  そう……そこにいるのね。  私をずっと呼んでたのは、 「サユキ。サユキなのでしょう」  闇の海を泳ぎ、かきわけて、上へ上へ、光の雫湧く泉へと。  夜の世界の水面には、私の姿が映し出されていた。  自らつくった檻に閉じ込めて、独りなんかいやなのに、独りを望んだ私。  ごめんね。さびしかったよね。苦しみを受け入れようとしなかったから、受け入れるのが怖かったから……私は逃げた。  もう逃げはしないと誓い、手を伸ばす。だけど、ああ、黒の海の水面は遠すぎて。  もう、戻れないの?  光の泉は遠くなる。  瞼をおろす。  底へ底へと沈んでいく。 「サユキ……」  双の泉に涙をたたえる。私は声を絞り出す。 「たすけて……帰りたいよ……」  声は闇に溶け、反響することなく消えた。  眠気に襲われる。  諦めかけて、それでも名残惜しく手を伸ばす。  と、その手を引くものがあった。  身体がとても温かい。まるで誰かに抱き締められているみたい。  無理よ。もう、息もできないのに。  泳ぐ力もない。ただ重くなっていく私を、懸命に引き上げていく。  目もくらむほどの光の扉が、遠くで開いた。  そうだった。サユキは昔から諦めが悪くて。  勇気はあるけど泣き虫で。 「セツカはいつもあたしを守ってくれたよね」  そうそう。だけど元気付けられたのは、いつも私の方だった。 「あたしがいないと、それだけで家中探して大騒ぎになったり」  恥ずかしいこと思い出させないでよ。  あれっ。この記憶はなに?  走馬灯のように、記憶の欠片は海の底に消えていく。  私は瞼を開いた。肩にサユキの頭が乗っていて、背には手がまわされていた。  同じようにサユキを抱き締める。  温かい。  まわりでは、雪原の上に色鮮やかな花々が咲いていた。  枯れることなく、力強く根をはり、新たな実を結び、種を抱く。そんな未来がありありと頭の中に浮かんだ。  小さな身体、サユキの体重を感じながら、私は「ただいま」といった。 「遅いよ。バカ!」  雲の合間から日がのぞき、いくつもの光の帯が垂れていた。  私とサユキはしばらく、四季の花畑を歩いた。花々についた水滴が、陽光を受けてきらきらと輝いていた。花のない場所を探して歩いていると、「踊ってるみたい」とサユキが言って、私はくすくすと笑った。 「ずっと昔ね、セツカと、こうして歩いてた気がするの」  私も同じ事を考えていた。なんだかとても懐かしい。そう、闇の海を抜け出すときに、一瞬だけ見えた……しかと思い出すことはできないけど。 「灰羽になる前」 「うん」サユキがくるりと回って、私を見つめて頷く。「でも、どうして忘れちゃったんだろうね」  彼女の目頭がすこし光った。 「泣いているの?」  訊くと、サユキの頬に一筋の川が伝った。 「あれ、どうしてだろ」  私はサユキのもとへ近寄って、そっと背に手をまわした。 「うれしいのに、涙がとまらないや」 「うん」  サユキのすすり泣く声が聞こえた。私も、いつの間にかもらい泣きした。 「私……ここにいて……いいのかな?」  あたたかい。春のような日差しも、サユキの体温も。  あたたかくて涙がでる。 「オールドホームに帰りたい。みんなに……会いたい」  ラッカ、カナ、ヒカリ、子どもたちの姿を思い浮かべて、また泣いた。 「私……サユキと一緒にいたい」 「うん。帰ろう。あたしたちの家に」 「あと、もうすこしだけこうしてから」 「セツカったら、わがままなんだから」  サユキは少しだけ笑って、頭を深く胸にうずめた。 「とっても綺麗な灰羽だよ」  私はしばらく、子どものように泣いていた。    * * *  過ぎ越しの祭の日に襲った大吹雪は、街にいくつか爪あとを残しました。誰も住まず、雪下ろしの手が回らなかった家が、いくつかつぶれてしまったのです。幸い犠牲者はなく、それよりも、オールドホームがびくともしなかったことにみんな驚いていたとか。  大雪は峠を越しました。新年の初めに顔を出したお日様は、とても冬とは思えない、あたたかな日差しを届けました。うららかで、春が来たかと勘違いしてしまうような陽気に、雪の上で昼寝をする人が続出したそうです。  次に噂になったのは、風の丘の向こうに、突如として生まれた花畑のことでした。はじめに見つけた青年が、天然のベッドに寝転ぼうとしたとき、留める声が聞こえました。声をかけたのは二人の灰羽でした。彼はごめんなさいと頭さげ、灰羽たちは優しく微笑み、それは仲良さそうに手をつないで丘を下っていたといいます。  なんだか心が満たされるような思いを抱きながら、青年は街をめざしました。花畑のことを知らせるためです。もちろん、荒らしちゃだめだと言い添えるつもりで。  風の丘には、あっという間に人々の行列ができました。彼らは花々を眺め、冬が終わりを告げたのだと確信しましたとさ。  と、まだ話は終わりでは有りません。  彼らのうち、幾人かが、ぼうっと空を眺めていました。花々に見とれていた人々も、つられて空を仰ぎ見ます。雲ひとつない蒼い天井に、それは綺麗な流れ星がひとつ。  光はまっすぐ線を引き、オールドホームに落ちていきました。  さて、この後のお話は、またの機会に……      *  幸せの果実。  これは二人の少女の物語です。  ひとりは花に祝福を与え、光る果実を実らせる者。名を晢果といいます。しかし、彼女の力だけでは、花は枯れてしまい、育つことも、新たな命が芽吹くこともありませんでした。  途方にくれる彼女に力を貸したのが、もうひとりの少女。豊かな水を与え、幾多もの、小さな小さな幸せの種を実に宿す、ゆえに名を些幸といいました。  幸せの種を、抱えし果実は、やがて地に落ち、新たな命と変わります。健やかに、伸びやかに育ち、実らすは幸せの果実。  皆の幸の糧となり、灰羽が無事巣立つための礎となりて、くる年くる年、少女の手にて育てられたそうな。 あとがき これにてお開きとなります。未熟な作品に、お付き合いいただき、まことにありがとうございます。 皆様の心に幸せの果実が実ることを、切に祈っております。 灰羽連盟は、私の人生といえば大げさに聞こえるかもしれませんが、それほどに大好きな作品です。 こうして、大好きな作品の後日譚を掲載する機会をいただいき、hanenosuさんはじめ、読者の皆様に、再度感謝申し上げます。 灰羽連盟、さらに多くの人に愛されることを信じ、最後のあとがきとさせていただきます。