幸せの果実 第六話 白・光・禍 【仲間】 「バカッ」  起き抜けに、カナに怒鳴られてしまった。無理もない。 「ごめん。心配かけて」  ゲストルームの寝台にわたしは横になっていた。頭ががんがんと痛む。まだ身体が冷えているのがわかる。  カナの隣にはヒカリとサユキ。ヒカリは心配そうに、サユキはどこか複雑な表情を浮かべ、わたしを見つめていた。  疲労が原因だとカナが教えてくれた。なんとなく予想はついたけど。  週末。仕事が終わったら、西の森に行くのが日課だった。巨木の根が、山となり谷となり道を塞ぎ、道中は困難だった。だけど、週に一度だけだったからなんとかやっていけた。それが急に頻度が増して、今までの疲労も災いしたのだろう。カナのいうとおり、バカにも程がある。 「わたしたちが気づけばよかったんだよね。ごめんね。無理させちゃって」  ヒカリが手をあわせて謝る。 「謝るのはこっちのほうだよ。それより、セツカの容態は?」 「あまり良くない。熱が上がったまま、下がらないんだ。どうしようか、これから」  溜息混じりにカナが言うと、今まで黙っていたサユキが口を開いた。 「ねえ、ラッカ。雪鱗木のある場所。あたしにも教えて」 「そうよ。みんなで手分けして採りに行けば」  ヒカリが同調して言い、わたしはすこし困った。 「うん。……でも、多分それだけじゃだめな気がするの」 「そういえばセツカの羽、いくら染めても黒い部分が薄くならなかった」  サユキの言葉にわたしはうつむいた。もう時間がないのかもしれない。『悪い者の目を眩ます』染料。もし、眩ませられないほどに、悪化していたら。  レキのときは、もっと時間がかかった。罪憑きながら、何年ものあいだ灰羽として、オールドホームで暮らしてきた。今度のは、あまりにもはやすぎる。  話師に訊けばなにか…… 「あたし、行ってくる」  突然サユキが部屋を飛び出していった。カナがあわてて、「おい、どこいくんだよ!」と呼び止めたけど、返事もないままに行ってしまった。 「大丈夫だよ。多分、話師のところだから」  罪憑き。罪に囚われてしまった灰羽。わたしが、レキが許されたのも、話師の助言があったからだ。 「一人で大丈夫かしら」 「ヒカリじゃないんだから」  カナがからかうように言うと、ヒカリはふくれてみせた。 「なによ、それ」  わたしは、前にヒカリが橋の上で飛び上がって落ちそうになったのを思い出した。くすくすと笑みがこぼれる。 「もう、ラッカまで。それよりも、わたしたちはわたしたちでやれることがあるでしょう。カナはもうすこし染料の材料をとってきて。わたしはセツカの様子見てるから」 「ええ、染料はもう効かないんじゃないの?」 「そんなことないわよ。備えあれば憂い無しっていうでしょう。進行を遅らすことができるかもしれないし、症状が軽くなれば効くかもしれないし。ね」  ヒカリがこちらに視線を送った。わたしは頷く。 「そんなこといって、染料つくったりするのが楽しみなだけだろう」 「まったく、文句ばかり言って。セツカのことが心配じゃないの?」 「心配に決まってるだろう。ああ、いつまでも相手してたら時間の無駄だ。行ってくるよ」 「無駄ってことはないでしょう。あ、またラッカ笑ってる」  大変な状況なのだけど、この二人の会話を聞いていると思わず頬が緩んでしまう。 「だって、くすくす」  こらえきれない。  カナが笑顔で部屋をあとにした。最後に、「セツカに変なことすんなよ」「しないわよ!」と残していくものだから、また笑ってしまった。ヒカリも楽しそうに笑みを浮かべていた。  薬で悪い者の目を眩ませられないのなら、わたしたちの明るさで眩ませてやる。そんなことさえできるんじゃないかと思えてくる。  だけど……最後はサユキに任せることになるのだろう。罪の輪をほどくには助力者が必要だ。  あの二人なら、きっと大丈夫だよね。  また眠気が襲ってきて、わたしは瞼を閉じた。 【砂と雪】  灰羽連盟寺院までの道中、外は身を切るような寒さだった。外套を羽織り、羽袋をつけて、それでも来るものを拒むような強い向かい風は冷たくて、凍ってしまうのではないかと案じてしまうほどだった。  吊り橋を四歩で駆け抜け、崖沿いの道を、ただ一心に走り走る。  考え無しに走ったため、円柱状の建物の前にたどり着いたときは、息が切れそうになっていた。  慌ててかけつけた二人の連盟員に鈴をつけてもらい、足を踏み入れる。しばらくたって、ある程度動悸は収まっていた。  まるで森みたいな寺院の中を、あたしは音をたてて早足で歩いた。  目的の人物は、庵の中に静かに立っていた。  騒々しく鳴る鈴の音を聞きとがめたのか、彼はあたしに振り向いた。 「サユキか。待っておったぞ」  あたしはひと二人分間を空けて立ち止まる。手につけた鈴を揺らし、形ばかりの挨拶をした。  今、彼はなんと言った。待っていたと、たしかに聞こえた。あたしがここに来るのを知っていたというのだろうか。  訝しげな視線を送ると、 「そう、険しい顔をするでない」  と、ぴしゃりと言われてしまった。仮面の下の表情は読めない。声の調子も抑揚がなく、常に物語を語っているときのように平静だった。 「私の質問に答えなさい。よいな」  右の羽を動かし答える。ここでは話すことを認めてくれないようだ。必要がないということなのかもしれない。 「ここへ来たのは、セツカという灰羽のためか」  ――はい、そうです。あたしはセツカを助けたくてここに。  羽を動かしながら、心の中で話師に語りかける。 「染料が効かなくなり、容態が悪化し、手がつけられなくなった。ゆえに訪ねたのであろう」  ――はい、あなたしか、頼る人がいないのです。  話師がなぜいままで起こったことを知っているのかは、あたしにとっては些末な問題にすぎなかった。ただ、セツカを助ける手立てが示されることを信じてあたしは答える。 「今年は例年に増して壁の力が弱まっておる」  ふいに、話師は一人話をはじめた。 「壁は灰羽を護るものだ。その力が弱まればどうなるか、わかるな。セツカの症状はこれが要因であろう。彼女が特に悪い罪を負ったから、などという理由では決してない。これまでどおり、罪の輪から抜け出すことによって必ずしや救われる。しかし時がない。壁の力がほとんどない今、罪の輪の箍(たが)は固くなり、やがて取り返しのつかないことになる」  では、どうすればよいのだろう。 「案ずるでない。お前とセツカは双子だからだろうか、とても強いつながりを感じる。お前の存在があるから、セツカはまだもちこたえることができる。だがまた、お前がセツカの罪の意識の元凶であるともいえる」  それは、矛盾しているような。 「別段おかしなことではない」  すると、話師はあたしの心を見透かすように語る。 「お前の存在がセツカの薬となり、そして不在が毒となるだけだ」  では今も……早く帰らないとセツカの症状が悪化するってこと? 「急いては事を仕損ずる。何が目的か忘れたか。セツカと四六時中ともにいようと考えたのならば、今すぐに忘れなさい。お前までも罪憑きになってしまっては、彼女を助ける者がいなくなってしまう」  どういうことなの? 話したくても口を開けない。もどかしい。だけど、彼はその答えを知っている。だから、待つしかない。 「これまではうまく均衡を保ってきた。壁の力が例年通りなら、数年かそれ以上は今のまますごせたかも知れぬ」  だけど、今年は違う。 「お前がともにいることもいないことも、もはや問題ではない。彼女は、お前とともにいることを望んではおらんのだ。罪に囚われ、その影響をお前に与えたくないと考えている」  すると話師は、あたしの背に回ってそっと羽袋を片方外した。そして一枚の羽根を取る。ちくりと刺されるような痛みが背に走った。  話師はあたしに取った羽根を見せる。わずかに黒い染みがついていた。 「罪は背負うものだ。それは必ずしも一人で背負うものではない。大きく、背負いきれなくなれば、二人で重みを分け合うこともまた道理。……案ずるな。しばらくは今までどおり暮らせばよい。だが、いつかは……」  突然、話師は言葉を切った。相変わらず仮面の奥の表情はわからない。 「前にここに来たとき、お前がなんと言ったか、覚えておるか」  セツカに罪はない。あたしがセツカを救う。  忘れようはずがない。  でも、セツカは罪を背負い、あたしがいてもセツカは……  見通せない未来を思い、うつむくあたしに話師は言う。 「勘違いするではない。罪とは自ら背負うものと、他人から背負わされるものがある。セツカの場合は前者であろう。他から見れば許されることを、罪と感じておる。  お前はセツカを救うと言った。その言葉に偽りはないな。  今においても、その言葉に、心に変わりはない。そうであろう」  話師の強い口調に、あたしは気を取り戻した。  右の羽を揺らして答える。  あたしにしか、セツカの罪の元となるあたしにしか、彼女を救うことはできないんだ。  強い視線を送るあたしを見て満足したのか、話師は一度頷いた。すると、彼はふところからなにか取り出して、あたしに渡した。 「今のお前なら授けても大丈夫だろう」  それは木箱で、文庫本ほどの重さだった。蓋(ふた)を開け中を見ると、黒い金属で出来た札が入っていた。  札に書かれていたのは、『些幸』という二文字。  私の名前?  話師を見上げると、彼は頷く。 「壁の中には、灰羽の名を刻んだ札が並んでいる。灰羽として定まったとき、札の名は、真の名に置き換わる。同じ響きを持つ名へと。それは私たちが、壁の札を模して作った札だ。その意味がわかるか」  些細な幸せ。名が示すところはなんとなくだが理解できる。だけど、なぜ自分にその名が与えられたかはわからなかった。  どちらの羽を動かせば良いか判じかねていると、話師が続きを説いた。 「些かの幸せ。それ一つは微々たるものでしかない。だが、幸せとは得てしてそういうものだ。幾多もの小さな幸せが集まり、はじめて大きな幸せと変わる。灰羽の幸は巣立ちへの道しるべとなる。お前は皆を導く役をその名に抱いておるのだ」  それじゃあ、先のセツカの薬というくだりは。 「気づいておるな。幸せこそがセツカの罪を和らげる薬であった。しかし、その効き目は薄れている。既に語ったとおりだ。お前の意志に揺らぎがないのであれば、わかるな。私にできることは、見守ること、そして助言を与えることだけだ。  セツカの熱を下げる薬だが、そこらにある薬草をいくらでも積んでいきなさい。煎じて飲ませれば、楽になるはずだ」  話師は言葉を切り、また何かを懐から取り出した。 「これも授けておこう」  それはさっき与えられたような木の箱だった。では、この中には、別の灰羽の名前が……。言葉を待たずとも、その名が誰のものであるか想像できた。 「過ぎ越しの祭の夜に、セツカに渡しなさい」  話師はどこまで見透かしているのだろうか。あたしは木箱を受け取りながら考える。祭のときに渡せということは、それまでは持つということなの? 「染料はこれまでどおりの量でかまわない。黒き羽に惑わされてはいかんぞ。止められもしなければ、道理を超え進行することもない。時がくるまではな」  そして、そのときまでに、あたしはセツカを助けなければいけない。 「話すことを認める。最後に答えなさい。サユキ、砂と雪の違いは何かわかるか?」 「砂は残るけど、雪は溶けて消えてしまう、でしょうか」 「よろしい。行きなさい」  気のせいか、話師が微笑んでいるように見えた。  あたしは薬草を摘み、帰途についた。  セツカ、大丈夫だよ。あたしがいるから。だから待っていて。  今はまだどうすればいいかわからない。だけど、それでもあたしがセツカを救うんだ。 【冬の訪れ】  月日が過ぎるのはあっという間だ。この二年間は特にそう感じる。三人の灰羽が巣立ち、三人の灰羽が生まれた。めまぐるしく回る日々というものは、時がたつのを忘れさせてしまう。あたしだって、いつ巣立ちの日が来てもおかしくない。別れは辛いかもしれない。だけど、壁の向こうがどんな世界かは興味がある。待っている仲間にも会えるかもしれないとなればなおさらだ。  と、その前にあたしにはやらなければいけない仕事があるわけだが。親方を超えるものをつくれって、巣立つなとでも言いたいのだろうか。時が経てば考えが浮かぶかも知れないし、今はあまり深く悩まないことにしよう。  考える間なんてないくらいの懸案事項がいくつもあるのだから。  そのうちのひとつ、ラッカの容態だけど、これは今は安定している。あんな寒空の下、西の森の奥までいくっていうのだから、そりゃ体調崩すのも当然だ。今は二人一組で、暇があれば西の森に出かけていく。そのほうが効率も良い。ネムが巣立ったり、親方が倒れたり、様々なことがあってラッカのことまで気が回らなかったことは、反省しなくちゃいけない。  セツカの具合は、なかなか良くならなかった。サユキが話師にもらってきた薬を与えて、熱は一旦治まった。けれど、黒い羽はもちろん、立ち上がる元気も起きない日がつづいた。ようやく元気を取り戻したと思ったら、子供の世話をしてる途中に倒れたりして、それは冷や汗ものの毎日だった。その様子をどこで嗅ぎつけたかはしらないけど、門の掲示で灰羽連盟から外出禁止の令が下るという始末。  もうすぐ過ぎ越しの祭だってのに。また来年行けばいいさ、と前向きに考えようにも、言い知れぬ不安が頭をよぎってしまう。こういうときこそ明るくしなければなのに、どうにもうまくいかない。ヒカリが「能天気なカナが沈むなんて珍しい」と心配するくらい。あたしは心の中に、暗いわだかまりを持ちながら日々を過ごしていた。  ヒカリといえば、むしろなにがあったの? と案じてしまうくらいに、いつもどおり、いやいつもより明るく活発に働き、セツカの世話もすすんでやった。すこし無神経なのでは、とも思ったけど、彼女の名の通り、あたしたちの心に光を届けてくれたのもまた事実だ。  あたしもラッカもサユキも、いつもどおりと言っちゃ言いすぎだけど、精一杯ヒカリを見習って、毎日を出来る限り楽しくすごそうとした。  したんだけど、三つ目の懸案事項は、さすがにそれだけでは解決しない。  大雪なんて、逆立ちしたって止められるわけないからだ。  ちょうど鈴の実市場が開かれ始めた時頃、示し合わしたように初雪まで舞い降りてきた。この時期の雪自体、別段珍しいことではない。毎年、こうして薄く積もった雪が、グリの街を白一色に彩る。だけど、今年は様子が違った。  朝、不気味なほどに静かだと思えば、案の定外は白の帳が降りたように、数えきれないほどの雪の片が、踊るように風に揺れながら、オールドホームの中庭に降り積もっていった。雪の粒は大きく、「これは積もるな」と案じたとおり、昼に、市へとでかけるときには、長靴が半分も埋もれるくらいに、白く冷たい絨毯は厚くなっていた。  セツカと子供たちを除いて、あたしたちは皆で鈴の実市場へと出かけた。この日は休日なのだけど、帰ったら休みなんてなくなりそうだ。  新雪に包まれた道を難儀しながらも、なんとかあたしたちはグリの街の中心部までたどり着いた。 「これは、祭中止になったりするんじゃないの」  街のいたるところで、除雪に繰り出した人々をみてあたしは呟いた。屋根の上から雪を降ろし、道をつくるために地面の雪を掘っては脇に退け。たった半日だけしか経ってないというのに、見事な雪の山が左右にそびえ立っていた。 「このままの勢いだと、雪置く場所なくなっちゃうね」  ヒカリは白い溜息をひとつ、あたりを見回した。 「祭が中止になることってあるの?」  ラッカがヒカリに尋ねる。たしかにヒカリは物知りだけど、こういうときに答える役が決まっているのは、なんか納得できない。 「中止になったことは、さすがになかったはずだけど……でも、大変でしょうね」  あちらこちらでサクッサクッと雪を切る音に雪山へと運び積み上げる音。それに、指示を飛ばす怒号が聞こえてくる。いつもより活気が増しているのは気のせいではないだろう。手慣れたもので、作業は面白いように進んでいく。あっという間に道ができていき、先ほどの雪の沼地はもうなくなっていた。 「帰ったら、あたしたちも雪降ろししなくちゃいけないかな」  あたしを見上げて、サユキが訊いた。簡単な質問はあたし専門ですかい、と心の中で文句を言うも詮ないこと。 「それは、住む場所なくなったら困るだろう」  なんたって、ガラクタ工場のやつらでさえ、ボロ屋敷っていうくらいなんだから。  冬の天気ってのはけっこう気まぐれなもので、先ほどまで空を覆っていた暗い雲が、今はすきまから陽光が差し込むくらいに晴れてきた。いつまでもは続かないだろうけど、街の人たちにとってはひとまずの休息……ではもちろんない。ここぞとばかりに、せっせせっせと雪を運びえっこらと。また積もり始める前に片付けてしまおうというわけだ。  さて、そんな様子を尻目に、あたしたちはようやっと鈴の実市場へとたどり着いた。 「すごい、人がこんなに」  サユキが感嘆の声をあげた。それもそのはず、市場を埋め尽くす人、人、人。雪除けにあれだけ人数を割きながらものこの人数だ。 あたりには鈴の実を山のように積み上げた屋台が並び、祝いの宴の食材を出してる店もちらほらと。あたしたちの声がやっと聞き取れるほどのざわめきに、あたしも最初のころは驚いたもんだ。 「普段は仕事やら何やらで、一斉に外に出ることなんてないからな」  ラッカがうんうんと頷く。 「そうそう。前に時計塔からグリの街を見下ろした時があったんだけど、この街ってとても広いんだよね。壁に覆われてるから狭いって思いがちだけど」 「時計塔って登れるの? あたしも見てみたいな」 「はは、また今度な」  そういえば、あそこに行ったのって、ラッカとだけだったっけ。 「私も見てみたいなぁ」ヒカリが呟いてなぜか苦笑いする。「でも、今はそのことよりもはやく鈴の実を買わないと。オールドホームに残ってる寮母のおばさん。大変だと思うな」  老体に鞭打って除雪に勤しむおばさんの姿が目に浮かんで、背筋が寒くなった。たしか出かけるときも、腰に手をあてながら…… 「だ、大丈夫だよ。だったらはじめから、手伝わせてから行かせるはずだし、楽しんでらっしゃいって言ってたし」  ラッカが慌てて言う。 「でも、頭にゆっくりとが抜けてたし……」  ここで沈黙とは気まずい。しかも空まで暗くなってきて、遠雷の音のおまけつき。  そこに助け舟をだしてくれたのはサユキ。 「……楽しめばいいんじゃないのかな」  至極ごもっとも。ただ、無駄話は控えめに。帰り道にいくらでもできるのだし。  となると、新人のための説明やらなんやらで任せられるのは、 「ヒカリ先生お願いします」  あたしが言うと、ヒカリは照れ笑いを浮かべる。 「せ、先生だなんて、もう」 「じゃあ、助けてヒカリえもん」 「なによそれ」 「知らないの? 図書館で今人気の絵付きコマ割の本だよ。かわいい眼鏡っ娘ヒカリえもんが何でも願いを叶えてくれる耳なし全裸の絡繰人形をつくってぼろもうけするという――」 「なに歪曲してるのよ!」 「それって、『ドザえもん』のこと?」  ラッカが突っ込みを入れた。 「そうそれ。なんだか物騒な題名だけど、中身はかなりコミカルで、ドザえもんっていう耳なし猫型人形の首を斬ると首を切られないっていう」  サユキが絶句して、すかさず、 「カぁナぁーっ!」  険しい顔をしてヒカリはご立腹。嘘ではないのだけど、無駄話と格付けされたらしい。  と、話してるうちに、誰か見知った顔が横切っていったような。黄色い鈴の実を手に、不気味な笑みを浮かべて、「えへへぇ、これをミドリちゃんに渡して」とか聞こえたのは、気のせいだろう。他に灰羽で眼鏡かけた子は一人しか思い浮かばなかったけど、何かの見間違いに違いない。  無駄に屋台の多い鈴の実市場だが、なんてことない。ただ人をばらけさせるために同じような店がいくつもでてるってだけだ。渡す相手とか、好みでストラップをつけた加工品や、鉢植えになってるものなどいろいろと売ってるけど、基本的には鈴の実だけ買えばいい。  ヒカリは色とりどりの実が山と積まれているひとつの屋台に向かい、こちらを手招きした。 「鈴の実はね、グリの街の名産で……といっても、他の街でどうなのかはわからないけれど。鉄や緑青(ろくしょう)――銅の表面にできる錆のことね――それを土に混ぜ合わせて、この色を作ってるんだって。赤はお世話になった人に、ありがとうって伝えるために渡すの。白はさようなら、とかね」  積まれた鈴の実からいくつか手にとりながら、ヒカリは説明した。 「赤が多い気がするけど」 「それは年末に行われる行事だから。ほら、鳴らしてみて」  サユキが赤い実をひとつ、右に左に小刻みに揺らしてみる。雑踏の騒がしさにさえぎられることなく、カラカラと心地よい音が響いた。 「殻が厚くて、振ると乾いた音がするのが良い鈴の実」 「へぇ」 「それでね……」  ヒカリが物知りなのはいいけど、このままではいつまでつづくかわからない。  傍で聞いてるのもすこし飽きてきたし、そこであたしはほんのすこしいじわるを。 「ヒカリ先生。鈴の実の他の色の意味を教えてくださーい」 「だから先生だなんて恥ずかし……え。他の色? ええとね、緑はおめでとうで、新年を迎えたお祝いの席とかで、みんなでカラカラって鳴らして。茶色のはごめんなさいって意味で」 「黄色は?」  無邪気な子供を装って、尋ねる。 「私はバカです……だったかなぁ」  ラッカはうんうんと頷いていたけど、 「たしか、違う意味だったと思いまーす」  わざとらしく言って、ヒカリが赤くなる様子を楽しむ。ラッカは「え、違うの?」とでも言い出しそうな顔をしていた。 「……もう。今年はみんなにあげない。べつに、大好きなみんなに好きですって言うなにがおかしいのよ!」  ヒカリはふくれ、鈴の実の山をわしづかみする。袋にパンパンにつめると「これくださいな」と灰羽手帳を一枚切って渡した。 「まいどあり」と店主の声を聞く前に、ザッザッと雪に恨みでもあるかのように、深い足跡をつけて大股歩き。 「あ、去年枕元にこっそり置かれてたのって」 「そういうこと」  ラッカに頷いて、あたしはヒカリの背を追いかける。 「ちょっと、待てって。悪かったから。機嫌直してくれよ」  ヒカリをからかうのは食事の席以上に楽しいこと。だけどたまにさじ加減を間違えると大変なことになる。 「もうおかしも作ってあげない」  本当に、それだけは勘弁して。 【過ぎ越しの祭】 「そんな風船みたいな顔すんなって」 「だれがさせたのよ!」  オールドホームにいち早く帰宅して、わたしは一人、黙々と屋上の雪降ろしをしていた。そこにカナが駆けつけて、一緒に作業をしているというわけだ。「一人じゃ大変だろ」って。だったらラッカかサユキをまわしてくれればいいじゃない、と言ったら、あっちはあっちで、別のところ担当しているという。なるほど、二人の差し金か。わたしは怖い顔をしてみせた。  雪は降り止む気配を見せない。というより、時を追うごとに、より大粒に、大量になっているような気がする。  屋上には平らな白い山ができており、見た瞬間気を失いそうになったほど。ただ、そんな様子を見せるまいと、必死になって角型のスコップで上の部分をすくいあげては振り返って落とす。 「それじゃいつまでたっても終わらないよ」  わたしが、ようやく屋上の一角に足場ができるまで雪を降ろしたころ、カナはすでに北側の一片までを片付けてしまっていた。 「こうやっていくつも切り分けてやれば、楽だし早いだろ」  横に、縦に切れ目を入れて、いくつもの角塊をつくり、下からすくいあげる。あとはカナの手によって地面に吸い込まれるだけ。  悔しいけどまねするしかない。なんだか見せ付けられたような、負けたような気がして、傍からみたらそれは無粋な表情を浮かべていたに違いない。 「なんでそんなこと知ってるのよ」 「親方仕込だよ。といっても、昔話聞いただけなんだけど」 「前にもこんな大雪の年があったの?」 「ああ、あたしたちが生まれる前に一回ね。大変だったろうけど、逆にそのおかげで街に活気があふれて、お祭のように楽しく雪降ろししてたっていうんだからすごいよな。今日だって見ただろう。みんな、これまでよりも元気そうだったろ」 「へえ、わたしたちもめげてちゃだめね」  ってなんで和んだ雰囲気になっての。  またぶすっっとしてみるけど、この怒りはわたしたちを嘲笑うかのように降り続ける雪に対するものに変わっていた。 「あのオンボロ工場つぶれちゃうかもな」 「あっちは男手があるから大丈夫でしょう。それより、こっちの心配しなさいよ」 「こっちに人貸してくれればいいのにな」 「あっちはあっち。こっちはこっち」  と、どうでもいい話をしながらも、作業は順調に進んでいく。とはいえ、まだ西棟の半分にもいたってないのだけれど。  そんな中、雪は冷たい雨と変わった。眠るように静かな空が、突然泣き叫び始めたかのような大雨だ。 「よかった、これで溶けてくれれば」  わたしは安堵の溜息をついた。けれど、カナはなぜか焦った様子。 「バカ、逆だよ。早くやっちゃわないと。前に親方が言ってたんだ。雨で重くなった雪につぶされた家がいくつもあったって。それに、硬くなった雪は岩みたいになるらしいぜ」  そのあと雨はほんの一時で止んだ。すぐにまた雪が降りはじめたけど。  ようやく大部分が終わったときには、空は暗くなっていて、腕は使い物にならないほどに疲れ果てていた。  結局、前言どおり、おかしはつくらないことになってしまった。怒ってたことも、この雪と寒さに冷やされてしまったのか、もうどうでもいいやと、忘れてしまっていた。  雪降ろしをして、大掃除をして、祭の日を迎えるまで、これ以外になにかしたかしら。  空のどこにこんな量を溜め込んでいるのか、と疑問に思うくらいの豪快な降りっぷり。大きな粒の雪だから、一日で子ども一人分の高さは積もってしまう。  さすがに街の人たちにも、すこし疲れの色が見えはじめた。しかし威勢よく手を動かす様子に変わりはない。空元気かもしれない。間違いなく言えることは、大事な日を無事迎えたい思いは、皆共通に持っているということだ。  ちなみに、大掃除のほうは、各々の部屋とゲストルームに年少組の教室、それに廊下を綺麗にするのでもう精一杯。毎年他の部屋も片付けなきゃと思ってるのだけど……気が滅入らないようにするにはいたしかたないって結論になってしまう。  そんなこんなしてるうちに、過ぎ越しの祭の日を迎えてしまった。  セツカの具合は大分よくなったのだけれど、一緒に行くのは難しいと、彼女はうつむきながら伝えた。  既視感を覚える。たしか去年はレキが……  だめよ、だめ。  わたしはすぐにその考えを打ち消す。  だって、まだ一年も経ってないのに。年数は関係ないかもしれない。それでも、セツカも、あのときのレキもラッカだって、なんで罪憑きなの、と何度も疑問に思った。彼女らが罪憑きなら、廃工場の灰羽にどれだけいるっていうのよ。……違う。自分の羽が黒くなるのは、自分のうちに原因があるからなんだ。外から咎められようが、本人が気にしなければいい。とは極論になっちゃうけど。  罪を自らの内に溜め、外には見せずにいることもある。その罪の意識から抜け出せなくなる、つまり罪に憑かれる。だから罪憑きなのだろう。  セツカが閉じ込められた罪の輪。その大きさも固さも分からないわたしに、解く術なんて見つけようはずがない。それが出来るのは間違いない。サユキだけだ。  そのサユキだけど。朝から元気がなかった。どこか悲しげな表情で、わたしたちの言葉にもとんちんかんな相槌をうつだけ。どうすればよいのかわからない。そこに見たのは明らかに困惑の色だった。  夕方、出かけるときになっても、目は焦点が合ってない様子。 「お祭の日なのにそんな顔しないの」  ラッカとカナが先頭で、その次に子どもたちがつづき、わたしとサユキは後ろから列についていく。門を出るときに名札を裏返す。サユキが忘れて素通りしたので、彼女の分も代わりに裏返してやる。赤い名前が並んで、その中にひとつだけ白の字の名札が残った。  わたしはサユキの横に並んで話しかけた。 「セツカのことが心配?」 「うん」 「どうしたらいいかわからない?」 「……うん」  ここでとんちんかんな質問をしても、頷きそうだったが、彼女の肯定の意に間違いはなさそうだった。 「それでいいと思うよ」 「えっ?」  サユキはやっとこちらを見る。わたしは微笑んでつづける。 「ラッカのときも、レキのときだって、罪憑きでなくなるのにどうすればいいか、なんてわからなかった……って、この話聞いたことある?」  かぶりを振って、サユキは「鳥に許されたっていってたけど」と、やっとまともな答えを返してくれた。 「ちなみに、セツカから聞いた話」 「まったくもう。辛い思い出なのはわかるけど、ちゃんと話しておいてくれないと。あとでたっぷりと言っておかなくちゃ」  と話が脱線しそうだ。 「そうそう、今はセツカの話だった。具合はどう? 祭に行けないっていうのは、本当に体調の問題だけなの?」  ならば、そんな悲しげな顔をするはずがない。セツカが常日頃、体調が優れないのは、別段おかしなことではない。祭に行かないことだって、もし本当に具合悪かったら仕方ないってなるはず。わたしがお気楽な性格だから、というのもあるけど、サユキだってそれだけで落ち込むような灰羽では決してない。灰羽連盟寺院から帰ってきたときの彼女の表情から、そう確信していた。 「一緒に行こうって言ったよ。顔色も良かったし。鈴の実を買うときもそうだった。セツカ、前に一度抜け出したことがあったみたい。だから大丈夫かなって誘ったら、……出て行けって言われて……」  目をうるませ、サユキはしぼり出すようにして話した。わたしはそっと手を握ってやる。セツカの代わりにはならないだろうけど……。今は、言わなかったことを咎めるときではない。 「サユキ」  彼女はすがるような眼でわたしを見る。 「セツカを助けたいんだよね」 「うん」 「大丈夫だよ」 「……どうして?」 「サユキがいるから」 「あたしが……」 「そう」わたしは一呼吸置き、「ねえサユキ。過ぎ越しの祭では鈴の実を渡すでしょう。なんでそうするのかわかる?」  サユキはふるふると首を横に振った。 「それはね……。ふふ。あとのお楽しみ。ほら、もう街についたよ」  すこし残念そうな顔で、「ええ、教えてよ」と抗議したけど、これを言うのはほんのちょっとだけ時期尚早だ。  頬を膨らますサユキ。すこし調子を取り戻したのをみて、わたしはひとまず安堵した。  雪が降っている夜は、いつもの夜に比べるとすこし明るい。昼に太陽からもらった光が、名残惜しくて捨てきれない。そんな淡い白。  これまでの大雪からすれば、今日は幾分穏やかな天候だった。冷たい雪の片が、あちこちで寂しそうに舞っている。風に揺れ、横に流され、たまに持ち上がったかと思ったら急降下。ひとつひとつの雪片の動きがよく見えるほどに、まばらな雪模様だった。  お天道様も気をつかってくれたのだろうか。街の人たちも、今日は雪降ろしに力を使うことない。皆、目前にせまったそのときを待ち望み、いつもの華やかさにも磨きがかかる。あちこちから楽しげな笑い声が聞こえた。 「これがもっとうるさくなるのよ」 「本当?」 「ほら、もうすぐ」  わたしは時計塔を見上げる。サユキも同じように大きな時計に目を向ける。ちょうど、大きな太い針が七時を指そうかというところだった。  揺れるように、針がほんのすこしだけ動いた。それを合図に、鐘が鳴り響く。 「今年はいつにも増して盛り上がりそうね」  街全体を鐘の歌が渡っていく。カナの勤める親方が最後の仕事として残した音色。美しく、優しく、白き街を包み込むよう。  それに負けぬとばかりの大歓声が湧き上がった。  祭のはじまりだ。  さっきはまだ人が普通に歩けた通りは、あっというまに、身動きができないのではと思われるくらいに人で埋め尽くされる。そのみんなが、こぞって喜びの、お祝いの声をあげるのだから、それはもう、耳がおかしくなりそうなくらい。 「すごい!」  サユキが怒鳴るように声をあげる。それくらいでないと聞こえないのだ。  あれっ。そういえば…… 「ねえ、サユキ! カナとラッカ、それに子どもたち、どこに行ったか知らない!?」  返事は否定だった。いつの間にかはぐれてしまったみたい。  ううん、どうしよう。でも、二人で困ることってあるかしら。 「途中で合流できるでしょう」  最悪、あの時までは、みんなオールドホームに帰っているでしょうし。そうとなれば、ひとつ説明を先にしとかないと。わたしはサユキの耳元に口を近づける。 「次の鐘が鳴ったら、誰も喋っちゃいけないの。そのときになったら、ほんとはみんなで行くつもりだったんだけど、鈴の実をお世話になった人にあげていくのよ」  まだ鐘が鳴らないのに、サユキは声をたてずに頷いた。  歌い騒ぐ人たちは、街が歌う準備をはじめたのを感じ取ったのか、心持ち静かになり、まだかまだかと、うずうずしてる様子が見て取れる。  わたしも息を呑んで、そのときを待った。  賑やかな街に、静寂の気配が下りてくる。  喚声はどよめきに変わり、もしかして鳴らないのじゃないかと一瞬思ってしまう。  と、ふいに、鐘が打ち鳴らされる。  低く、荘厳で単調な音だった。静寂へのいざないとしては、確かにこちらのほうがふさわしいかもしれない。  潮が引くみたいに、街はあっという間に静かになる。これだけ人がいるのに声がしないなんて、いつになっても不思議なものだ。  わたしは目を丸くしていたサユキの手を引いた。  これは、祭の最後にどうなるか、楽しみね。  まず手始めに、わたしの勤めるパン屋さんからまわる。訪ねたのが二人だけなのを見て、ちょっと驚いた様子のお三方に、赤い実をそれぞれ渡した。それぞれが、カラカラと心地よい音を鳴らしてにっこりと微笑む。これが見られるから、毎年この日はわたしにとってなによりも大切で大好きな日。  お次はカナの分もこめて、時計屋の親方の家へ。彼は既に退院していて、それは元気な様子だった。カナがもう訪れたらしく、彼の手には宝物のように赤い鈴の実が握られていた。わたしとサユキは、肩をバンと叩かれ、親方さんは頬を緩めて頼み込むように頭を下げた。「カナをよろしく頼む」と顔に書いてるよう。もちろんわたしたちは頷いた。  寮母のおばさんの家や、スミカさんの家、古着屋など、顔なじみの人たちのもとへ鈴の実を届けていく。あとにまわった場所ほど、それはたくさんの鈴の実が飾られたいたり、山となったりしていた。  みんながみんなを好きで、たとえ小さないさかいがあったとしても、祭のときに茶色の鈴の実を渡せば、嫌な思いも流れていってしまう。おめでとうだけでもいい。ときには好意を伝えることだってできる。言葉じゃないから、だからこそ伝わる想い。一年の最後にこめた大きな大きな想いは、幸せをもたらす魔力のようなものを秘めているのかもしれない。  廃工場では、今年も花火を打ち上げるらしい。去年は黄色だけだったけど、今年は全ての色の花を空に咲かせるとミドリが言っていた。わたしたちが、おもむいたとき、二人の灰羽が花火を打ち上げる準備に勤しんでいた。  緑色の鈴の実を投げ入れる。あちらも同じ色を投げてくるかと思えば、あろうことか黄色の鈴の実の返答。わたしたちが苦笑いしながらそれを投げ返すと、彼らはがっくりとうなだれた。  最後に訪れたのは、サユキがもっともお世話になった喫茶店。サユキが店主に赤い実を手渡すと、彼は優しげな視線でじっとそれを見つめていた。と、彼が後ろを向くように手で示した。なにかをサユキの羽袋に取り付けてる。あっ、鈴の実か。  彼がサユキの背を押すと、羽が揺れて赤い鈴の実が小気味よいを奏でた。サユキはあきれた表情で店をあとにしたけど、しばらくは羽を揺らして、乾いた音をやかましいくらいに何度も鳴らした。この音色は、選びに選び抜いた鈴の実に違いない。聞いているとよくわかる。単調だけど、そこにこめられた想いの旋律が、心に届き震わせる。  サユキは頃合をみて、背の灰羽を取り外し、愛おしげな視線で見つめると、懐にしまいこんだ。  はぐれたみんなを見つけて、からかわれるのが恥ずかしかったのだろう。 「まったく。いきなりいなくなるから焦ったよ。まあ、見つかってよかったけど」  帰り道、カナは大きな溜息をして言った。 「カナったら、あわてて、あわてて。大変だったんだから」  ラッカがくすくすと笑い、「おいそれないしょだって」と、カナがラッカの口をふさごうとする。 「だって、聞いてなかったもの」  私は思わず苦笑いする。 「えへへ、ごめん」  その様子をサユキがじっと見つめていた。ああ、そうか。まだ祭の最中だものね。 「静かにするのは鈴の実を渡す間だけだから、もう喋っても大丈夫よ」 「えっ、そうなの? てっきり今日はもう喋っちゃ駄目なのかと思ってた。そういえば、みんな自由に話してるね」  前を歩く子どもたちは、さっきから大きな声で談笑している。この雪空さえ吹き飛ばしてしまうくらいの賑やかだ。話の種がつきない今日は、そのやかましさも倍増だった。  だけど、彼らの元気に反比例するように、サユキは押し黙ってしまう。 「どうしたの?」  わたしが尋ねると、サユキは首を横に振る。 「ううん。なんでもない。すこし考え事をしてただけ」  考え事……。それはおそらくセツカのことだろう。セツカは、今日一日中オールドホームで留守番をしていた。彼女が想いを届けることが出来なかったことを、サユキは残念に思ってるのかも。すべてを語らずとも、なんとなくわかる気がした。 「大丈夫だよ」私は強く言う。「寮母のおばさんに、古着屋のおじさん。それ以外にも街の人たちに赤い実を渡すとき、自分だけが渡してると思ってた?」 「ちがう。セツカの分も、いっしょに渡すつもりだった」 「うん、そうだと思った。なら、心配しなくても、セツカの想いはみんなに届いているわよ」 「本当?」 「もちろん」  話しているうちに、風の丘まできていたみたい。オールドホームまではあとすこし。雪は強くも弱くもなっていない。風はそれなりに吹いていて、風車がうなるような音をたてていた。そういえば、この音も大雪のせいでしばらく聞こえなかったっけ。ほんの一週間のことなのだけど、なんだか懐かしい気がした。  オールドホームの門の前にくると、みんながまた鈴の実を渡すときのように静かになった。みんながばらけて佇んでいたけど、わたしとサユキはなんとはなしにすぐ近くに隣り合った。 「なにがはじまるの?」  高台からはグリの街が見渡せる。いつもは眠ってる街が、今は街灯や家の明かりが、まばゆい星明りのように輝いていて、それは綺麗だった。夜も遅いのに、まったく暗く感じない。 「もうすぐね」  サユキが首を傾げる。教えてやりたいけど、実際に体験するのが一番だろうから、わたしは思わせぶりな微笑みで答えた。  午前零時の鐘が鳴り響く。    街が歌っている。それは悲しみの歌だろうか。それとも喜びの歌か。  最後で最初の歌は、それは鮮やかで力強く空気を揺らし、風を渡りわたしたちの耳へ、心へと確かに届く。街一番の歌姫の、清く澄んだ声音は、心を包み込む柔らかな衣のように胸の奥まで響き、染み渡っていく。  普段は何気なく聞いている音。それがどれだけ愛おしいものか。毎年、街が独唱するこの時間に、ひしひしと感じる。  音が止んでいく。たった一人の音楽団が、次は壁の向こうで独演会を開くのだろうか。心の奥底に大きな足跡を刻んで、残されたのはどこか心地よい静寂。  ラッカとカナが、そして子どもたちが順に瞼を閉じていった。  祭も、もう終盤を迎えた。あとは…… 「サユキ、目を閉じて耳を澄ましてごらん」  サユキは疑問を口をすることなく、そのとおりにする。何が起こるか問うても、はぐらかされるってわかっていたのかも。実際、説明するよりも、体験するのが一番はやい。  わたしも静かに瞼を降ろす。  風音に混じって、音が聞こえる。ぴちょんと水面に水滴が落ちる音だ。いくつもの波紋が心の中に広がっていくよう。耳からでなく、直接胸の内に注ぎこまれるような、不思議で、なぜかとても懐かしい音。  雫の音に隠れるように、人の声が小さく聞こえはじめる。  笑っているのだろうか。泣いているのだろうか。わからない。幾多もの感情を混ぜ合わせたさざめくような声は、すこしずつ大きくなっていく。  誰の声なんだろう。  まるでわたし一人湖面に浮かび、さざなみが通り過ぎていくのを感じているみたい。  ひとつひとつは小さな波だけど、声は数え切れないほどにたくさんで、重なり合って共鳴する。  どこまでも聞こえる耳を持っていて、遠くで囁き声がいくつも聞こえる。そんな感じ。  楽しげに、それでいて憂いを帯びて悲しげに。ときに怒り、ときに喜び、楽しそうに笑う。囁きの奔流はあっという間に押し寄せ、去っていくのもあっという間だった。  なんでだろう、この声はいつも空を目指してるのではないかなって思う。  オールドホームまで駆け上がって、風の丘でもらった大きな風の力に乗って。  上へ上へと、だからこうして高台で、かの声が過ぎるのを耳を澄まして待つのかも。  声は遠ざかっていって、三たび儚げな風の鳴き声が唯一の音となる。  しかしまだ終わってない。  何かがはじまる気配が遠い向こうからする。  わたしは目を開ける。サユキも、まっすぐに壁のほうを向いていた。  壁の発光がはじまった。  真っ青な空に木の葉の濃い緑を溶け合わしたような色の光は、空に手を伸ばすかのように、すこしずつ壁を彩っていく。  やがて大きな光の円に、グリの街はすっぽりと囲われてしまった。  古今東西の宝石を集めてきても、この光景と比べられたら叶わないんじゃないかしら。  ふいに涙がでそうになる。  あまりにも綺麗で、そしてあまりにも儚い、ほんの一時の奇跡。  こんなに力強く光るのに、ああ、もう底から光が逃げていく。 「あの光がなんだかわかる?」  わたしはサユキに尋ねる。 「うん。なんとなくだけど。わたしたちの、街のみんなの想いなんだよね」  そう。だからこんなにも愛おしい。 「ああやって、みんなの想いを空に帰してあげているの」 「あたしたちのも?」 「もちろんよ」 「……綺麗だね」 「そうね」 「セツカにも見てあげたかった」 「きっと、見てるはずよ」  サユキはうつむくように頷いた。  わたしにできること。それはほんの小さな灯りを灯してあげること。  灰羽は真の名前があるのだという。『落下』は『絡果』。ラッカが前に教えてくれた。  だけれども、わたしの名前は光のままだろうと思った。なんとなくだけども。  それがわたしの役目なら…… 「サユキ」 「……?」 「…………力になってあげられなくてごめんね」  彼女は首を横に振る。 「ちがうよ。みんながいたから、だからあたしは……」  彼女はにっこりと微笑んだ。目になにか光るものが見えた気がした。  私はサユキの光となれたのだろうか。 【禍】  いつまでも見ていたかった。声となり、光となった想い。一年間積み重ねられ、その一時だけにすべてを空に届けていく。想いも、もしかしたら巣立ちの時を迎えて、壁の向こうに行くのかも。街の人々はそれを知っているから、グリの街の外へ出れなくても構わないのかもしれない。  知らぬ間に頬から一滴の雫がしたたった。  ヒカリに見えないように顔をそらして、ひそかにぬぐう。  いつまでも魅入られていてはいけない。セツカのもとへ行かないと。 「ヒカリ。あたし先にいってるね」 「……うん。サユキ、セツカを……」 「わかってる」  ヒカリはすこし心配そうな目をしていた。でもすぐに、お母さんのように優しい笑みを浮かべて、 「サユキだけじゃないから。ここにいるみんなが、サユキの、そしてセツカの味方」 「うん」  他のみんなが祭の余韻に浸り、談笑してる中、賑やかさを取り戻した街を尻目に、あたしはオールドホームへ、セツカのもとへと向かう。  セツカが呼んでいる。かすれて消え入りそうで、それでもあたしに来て欲しいって事だけは、不思議と鮮明に伝わってくる。  門であたしの札を裏返す。赤から白。白い札はあたしとセツカのだけとなった。  中庭に行って、ふと建物を見上げてみる。ゲストルームの露台から、上へ上へと視線を移す。そこは、あたしたちの部屋。セツカがいるかどうかはわからない。  空からは祭の間だけ休んでいたのか、また大粒の雪が降りはじめていた。  オールドホームの中は、暗くて足元がおぼつかない。電灯を点けようとしたけど、停電しているのか電灯は沈黙したまま。街はあんなに光っていたのに。今日は雷は落ちていないはず。  なんとか手探りで階段を上り、あたしとセツカの部屋へとたどり着く。  扉を開けて閉める。静寂の中、ドアが閉じる音は、不気味なくらい大きく響いた。  窓がある分、暗闇に慣れた目なら、おぼろげながら中の様子が見てとれる。  セツカは……いなかった。  寝ているのかな。二段の寝台に目をやる。掛け布団は丁寧に敷かれていて、ふくれてはいない。念のためめくってみたけど、誰もいない。上段も同様だった。 「セツカ……どこ?」  机に置いてあった燭台のろうそくに火を灯す。はじめからそうしておけばよかったのだけど、気が動転していた。  ふところからセツカの名が入っている木箱を取り出した。 「セツカ、これを届けにきたんだよ」  誰もいない部屋から返事が聞こえるはずがない。  あたしは何がおきたか分からないまま、押し寄せる不安に手が震え、木箱を落としてしまった。ふたが開き、そんな気はなかったのだけど、金属の札に書かれた名に視線が吸い込まれてしまう。 「嘘……だよね」  そこに刻まれた名前は、 『悼ミ(せつか)』  札の後ろに一枚の紙が覗いていた。あたしは迷わず手に取った。達筆で読みづらかったけど、なんとか何が書いてあるかはわかった。  こころもとない灯りのもと、視線を上に下に走らす。 「嘘だよ」  何度も呟く。嘘だ、こんなはずはないと。  そこに綴られていたのは、一人の少女の名前にまつわる話。  あたしは紙を落とした。  悼ミ……禍を育てる者。  違う。  セツカがそんな名前のはず…… 「どうすれば……いいの」  どこに彼女がいるのかもわからない。  窓辺に寄って外を見る。ものすごい勢いで雪が降っている。これ以上降りつづけたら、街が雪の中に沈んでしまいそうなほど。  こんな中、一人で出歩くなんて考えられなかった。ましてや、体の弱いセツカでは。  もしかして、もうセツカは…… 「そんなこと、考えちゃ駄目だ!」  あたしは首を横に振り、セツカがいつも座っていた文机に目を移した。 「あれ? これって……」  こんなところにセツカがいるはずないと、さっきは目を留めなかったけど、端のところに紙の束が置いてある。間違いない。彼女があたしに隠れて書いていたものだ。  一番表には、暗闇でも見えるほどの大きさで『サユキへ』と書かれていた。傍には二つの鈴の実が置いてある。セツカは市に行ってないはずなのに。だけど、鈴の実の色をみてそんな疑問は吹き飛んでしまった。  鈴の実の色は、茶色と白色。  あたしは燭台を近くまで持っていって、椅子に座り読み始めた。  手紙を読み終え、気がついたら部屋を飛び出していた。どこへ行くの? とみんなが驚き止める声を無視して、オールドホームの外へ。  雪に足を取られ、何度も転びかけた。  今日はいつにも増して雪が冷たかった。  構わずあたしは走り続けた。  我が身をいとう気など、砂粒ほどもなかった。  あたしは飛ぶように走る。  セツカのもとへと、ただひたすらに。 あとがき 物語も終盤。当初は今までどおり、短めにまとめようと思っていたのですが、それぞれの視点で丁寧に描こうとしたら、このような分量になってしまいました。 最後まで読んでいただき、このあとがきを読んでくださっておられる方には感謝してもしたりません。 頑張ってヒカリを主点にしようと、いろいろと記憶やら設定やら改ざんしております。目をつぶっていただければ、と。途中に入れた小ネタのもとは言わずもがな。 過ぎ越しの祭は、私としてももっとも描きたかった部分です。灰羽連盟の世界観を、これでもかというほどに表現し、私たちに感動を与えたあの場面。この場面を書く機会を得たというだけでも、幸せの限りです。 次回で物語もおしまいとなります。いましばらく、お付き合いください。