幸せの果実 閑話 鳥・世界のはじまり・海の星 【鳥】  グリの街は壁で囲われている。壁を越えることができるのは鳥だけだ。今日も幾羽かの鳥の群れが、漆黒の翼をはばたかせ、壁を越えていく。  鳥は壁の向こうの世界を見ることができる。果たしてどんな世界なのだろう。トーガと交易を行う点をかんがみれば、そこは豊かな地かもしれない。しかし、だからといって、私はかの地へ行くことを望む訳ではない。すくなくとも今は、だ。  この街での生活はとても気にいっている。工場跡で灰羽として生まれ、そして図書館で働き、他の灰羽たち、グリの街の人々と触れ合ううちに、ここでの生活がかけがえのないものに思えるようになった。  ただ、外の世界に興味があるだけ。それもいずれ分かる。灰羽はいつか壁を越えるのだから。さながら鳥のように。      *  私は夢の中にいた。幾度となく繰り返してきた、繭の中で見た夢。まるで呪縛のように、脳裏に焼き付けられた光景。でも不思議と怖くない。夢の中で私は孤独だった。それでも、覚めてほしくないと願った。 「ミホシ! いつまで寝てるのよ」  怒声にしぶしぶまぶたを開くと、ぼんやりと視界に一人の灰羽の姿が映った。 「あと三十分〜」  ゴロンと寝返りをうつと、彼女はあきれた溜息をついた。幸せがどんどんと逃げてしまいそうなほどに大きな溜息だった。 「もうお仕事の時間でしょ。ほんとあなたって睡眠欲だけはネムみたいね」 「えへへ」 「褒めてない!」 「ミドリがキスしてくれたら起きる〜」 「一生寝てなさい」  彼女がカツカツと歩む音が聞こえた。本当にいってしまったらしい。ミドリをからかうことは一日一回の儀式のようなものだ。この習慣を欠いてしまうと、一日がつまらなくなってしまうほどに、私はミドリが大好きだ。かなりいびつな感情だけど……。彼女は私の先輩の灰羽。野蛮な男どもがガキに見えてしまうほどの凛々しさは、私の憧れだった。 「ふわぁ〜あ」  大きなあくびをして伸びをする。粗末な寝台での睡眠も、慣れれば快適に感じられるから不思議だ。  私は傍に置いてあった黒縁の眼鏡を装着する。薄ぼんやりとかすんだ視界が、一瞬にして鮮明になる。この瞬間が、私はたまらなく好き。  そして鏡をみる。クイと縁を指で押し上げてにんまりと笑う。うん、今日もいつもの私。みんな、眼鏡なんてダサいと笑うけど、そんなことは決して無いと思う。眼鏡を私から奪ったら、私という存在がなくなってしまう。それほどに、私にとってこの眼鏡は、一心同体と言えるほどに大切なものなのだ。  私たち灰羽のすみかは、ボロボロになった工場跡。私たちのほかにも灰羽はいて、彼女らは、ここから南東にあるオールドホームに住んでいる。廃工場の灰羽の中にはボロ屋敷と呼ぶ者もいるが、私はオールドホームの方が、どこか温かみがあって好きだ。  窓から朝日が差し込んでくる。真っ白な光の中に吸い込まれるように、一羽の鳥が飛んでいった。  あれっ? 随分と陽が高いような……。 「今何時!?」  慌てて部屋から飛び出ると、廃工場はすでにもぬけの殻。みんな働きにいったのだ。 「もう、ミドリちゃんもっとはやく起こしてよ〜」  今は姿なき親友(勝手にそう思ってる)に文句を言いながら、私は走った。ちなみに後で聞くと、私が目覚める二時間以上も前から、ずっと起こそうと呼びかけてくれたらしい。そのことで彼女が激怒するのは、また後の話。 【世界のはじまり】  私は大急ぎで駿馬に負けないほどの勢いで自転車を走らせ、図書館に向かった。廃工場から北西、工場地区を抜ければすぐなのだけど、既に鐘の音が街の目覚めを告げていた。  決して誤解しないでほしい。眠がりなのは朝だけ。昼はこれでも結構まじめなのだ。だからといって遅刻の罪が晴れるわけではないのだけれど……。 「遅い」 「すみません」  図書館の入口に仁王立ちしていた先輩に、めっきりしかられるかと、内心おだやかではなかった。けれど、遅れた理由を話すと、予想に反して彼女は豪快に笑った。 「あっはは。もういいよ。なんだか怒る気もなくなっちゃった。早く仕事に入りな」  「……はい」  きょとんとしながらも私はうなずいた。 「まったく、ここにスミカがいないのが残念だよ」  スミカさんとは、かつて図書館に勤めていた司書だ。私が働きはじめたころには、もう子どもを授かったのを期に退職、今は子育てに大童だ。彼女は、時折子どもに読み聞かせするために図書館を訪れる。そのときに見せてもらった男の子といえば、もう大はしゃぎで徘徊するは暴れるわで、これじゃ仕事にはならないなと大笑いしたものだ。 「どうしてスミカさんなんですか」 「はは。あとで聞いてみな。今日は午後に来るって聞いてるからさ」  はぁと気のない声をあげると、彼女は私の背をバンと叩き、 「さあ仕事だ仕事。今日は遅れた分たぁっぷりとあるからなぁ。覚悟しろよ」  苦笑いしながら、明日からは早起きしようと心に決めた。といっても、一ヶ月に一回は同じようなぽかをやらかしてしまうのだけど。それほどに、睡魔とは恐ろしい化け物であると私は確信している。      *  図書館に勤めてもうかなり日がたつが、それでも書架にずらりと並べられ、威圧感すらただよわせる書籍の群れをながめていると、この施設の巨大さを思い知る。街の大きさに比べると分不相応と言わざるを得ない。おそらくトーガとの交易で仕入れた物が大半であろうと私は考えている。街でも本はつくられるが、どれだけ時間をかけたってこれだけの量にはならない。  しかし不思議なのが、これだけの本があって、外の世界について書かれたものがひとつもないということだ。どんな物語を描いた本でも、壁の向こうの世界を思わせる描写のかけらすらない。いちいち検閲して仕入れているのだとしたら、余程徹底しているのだと考えられる。  この図書館には、化石の展示室がある。そこに西の森の遺跡で発見された本の化石らしきものが展示されており、壁の向こうのことが書かれていると専らの噂だが、読めないのだから真偽の程は定かではない。  つまるところ、私たちにとって知りえる世界はグリの街のことだけ。この世界がどのように始まったか、壁の向こうに何があるのか、それらは全てもって想像の域を出ない。私たち灰羽のことだって、現に灰羽である私も、廃工場のみんなも、オールドホームの灰羽たちも、誰一人として的を得た考えを披露することはできない。  いつか知るときがくるのだろうか。街から巣立つとき、そのとき私はなにを見るのだろうか。そんなことを考えると、私はすこし不安になりながらも、それ以上にわくわくする。もっとこの世界のことを知りたい。  ただ、私はそのほんの一部分を見ている。私だけの夢物語。だけど、なぜかそれがとてもしっくりくるように思われた。      *  仕事が一段落し、私は食事を済ます。休憩時間になると、先輩がにやにやと不適な笑みを浮かべながら私を呼んだ。嫌な予感がした。そしてそれは的中した。 「子ども達に読み聞かせの仕事をしてやってくれ」  休む時間はなしということだ。もちろん断ることはできず、にぎやかな声があふれる子供室へと向かう。 「スミカによろしくなー」  後ろから声が追いかける。私は振り返って尋ねた。 「今日は随分と早いんですね。いつも夕方近くに訪れるのに」 「あたしが、ミホシの語り聞かせが見れるって言ったら、喜んで来るってさ」 「先輩のいじわる」  私はボソッと呟く。 「なんか言ったか?」 「なんでもありませんよ」  来てるなら来てると最初から教えてくれればいいじゃないの。突然言われたら緊張しちゃうじゃない。私はぶつくさと文句を言いながらも、内心スミカさんに会えることを嬉しく思っていた。彼女の優しさは司書の仲間内でも折紙つきだ。仕事をはじめたばかりのころ、よく遊びがてらに指導してもらい、随分とお世話になった。先輩と比べたら月とスッポンだ。こんなこと言ったらまた仕事増やされるかもしれないから言わないけど。  私が向かう部屋は子供室という。その名の通り子供たちのための部屋で、主に子供たちに本を読んであげるために使われている。仕事を持つ母親たちにはとても好評と先輩は語っていた。  部屋の扉を開けると、一人の女性が子供を抱いて椅子に座っていた。他に子供たちの姿はなかった。 「こんにちは」  短く切った髪に端正な顔立ち。私の憧れのスミカさんその人だ。 「こんにちは、あれ? 今日はお一人で?」 「この子がいるわよ」 「あ、そうでしたね。でも寝てますけど」 「寝かせといてあげて」 「あのぉ、語り聞かせは……」 「あたしが聞きたいの」  スミカさんは優しく微笑んだ。私はどうしようか悩む。この部屋に置いてあるのは子供用の絵本ばかり。 「どれでもいいわよ」  彼女の穏やかな声音におされ、私は常日頃十八番として読み親しんでいる一冊を選んだ。『星降る森』という題名の本だ。元は一つの歌をもとにした、古に存在した、星が降り注ぐ森の物語で、幻想的で自然への愛がひしひしと感じられる私の大好きな本だ。何度読み返したことか分からない。千年の果てまでも森は生きていく、という部分が特に印象に残っている。  椅子に座り、心をこめて読み進める。一通り語り終えると、スミカさんは満足した表情で拍手を送ってくれた。どうやら気に入っていただけたようだ。私はぺこりとおじぎした。子供はまだ目を覚まさない。それでも、スミカさんに聞いてもらっただけでも充分に満足だった。すこしこそばゆい。 「とても素敵な朗読だったわ。やっぱり、あなたってネムに似ている」 「……?」  私ははじめて聞く名に首をかしげる。いや、たしかミドリもその名前を言っていたような。たしか……。私が悩む姿を見て、スミカさんはあきれた表情を浮かべた。 「あら、あの子ったら、先輩の灰羽のことも教えてなかったの?」 「はい……あの、よろしければ教えていただけませんか」  先輩の灰羽。初耳だった。本当に先輩は意地悪だ、と悪態をつきたくなったけど、それはあとでも構わないだろう。今はそのネムという灰羽のことがとにかく知りたかった。  スミカさんはうなずくと、傍らに置いてあった手提げ鞄から、一冊の本を取り出した。 「とてもよく寝る子だったわ。夢の中でもずっと眠っていたみたい。だから眠ると書いてネム」  なるほど。それで先輩は今朝、私が大寝坊したことに爆笑したわけか。ネムという灰羽と私を重ねて。 「彼女についてはそれ以上に語ることが無いくらいよ」 「私も眠るの大好きですよ。今朝なんて三十分も遅刻しちゃって。これがなんと不思議なことに一ヶ月に一回は起きちゃうんですよ」  言うとスミカさんは心底おかしそうに笑った。私もつられて笑った。 「ところで、それは」  私はスミカさんの持っている本に視線を投げ、訊ねた。 「ああ、忘れていたわ。彼女については、語るよりも、この本を見てもらったほうが分かるかと思って」  彼女が渡した本を受け取る。深緑の表紙の本は紐で閉じられていて、妙にしゃれている。手作りですか、と尋ねると、彼女は嬉しそうにうなずいた。 「あたしがこの子を産んだときにね、お祝いにつくってくれた本なの」  表紙の上のほうに『世界のはじまり』と題名が書かれていた。そして右下には作者であろう名前が刻まれていた。ひとつはネム。そしてもうひとつはラッカ。その名前には聞き覚えがあった。確かミドリの話では、オールドホームの灰羽だったはず。ミドリがレキのことを話すときに、よくその名前が登場したっけ。 「はじめはあたしとネムとで考えてね、そのあとは、彼女のオリジナル」 「この本って……」 「ふふ、そのまんまの意味よ。世界のはじまりの物語」  私は、宝物でも扱うかのように紐をほどいき、静かに本を開いた。『世界のはじまり』は絵本だった。抽象的な絵に寄り添うように、柔らかな筆調で物語が書かれていた。  それは、神様が、灰羽や人を生み出し、グリの街が誕生するまでを、とても独特な視点で描いた物語だった。読み進めると、すぐに引き込まれてしまう。居眠りをしてしまった神様のくだりがどこか微笑ましい。これって……。 「これって、ネムさんのことですか」 「ね。面白いでしょう」 「ええ、本当に」  ほうと溜息をつき、本をパタンとたたむ。紐を閉じてスミカさんに渡した。 「これがこのままグリの街のはじまりだと言われても、私は疑いませんよ。夢があって楽しくて。ラッカさんかぁ。会ってみたいな」 「会おうとすれば会えるわよ」 「でもきっかけが……」 「だから、これからきっかけを作るのよ」  スミカさんは、子供と一緒に本を抱きしめると、今までに見せたことのない清清しいほどの笑みを浮かべて言った。 「あなたの世界のはじまりを聞かせて」 【海の星】  世界のはじまり。私だけの……。  なぜだか胸がどきどきする。それは、何度か私も考えたことのあるお話だ。だけど、いざ披露するとなると、舞台に立つでもないのに緊張する。  荒れ狂う心を収めるため、私は大きく息を吸い、吐いた。 「スミカさんは私の名前の意味を知っていますか?」  尋ねると、スミカさんはなにやら楽しげな様子でうなずいた。 「ええ。たしか、海の星という意味だったわよね」 「はい。これはその名前、いえ、繭の中で見た夢から考えたお話です。……あの。出来は期待しないでくださいね」  あんな素敵な物語を読んでしまったら、自信が風船から空気が抜けるようにしぼんでいってしまう。  スミカさんはといえば、心底楽しそうに、微笑んで私が話すのを待っている。どうやら拒むことはできなさそうだ。  今までだれにも話したことの無い物語。彼女の優しい笑みに促され、私は今から歌い始めるかのように大きく息を吸い、そして話し始めた。      *  それは遠い遠い昔のお話です。そのときはまだ世界は存在していませんでした。ある日神様は、あまりにも退屈なので、小さな箱庭をつくることにしました。それはまあるい球の形をしています。ちょうど神様の手の平ほどの大きさでした。いくつも同じような球をつくると、いつしかきらびやかな星空ができました。  神はやがて星をつくることに飽きてしまいました。しばらくたくさんの球に囲まれていると、段々と独りでいるのが寂しくなってきます。そこで神は、一つの星に自分と同じような姿をした天使をつくりました。神は彼らと話すことでとても充実した幸せな日々を送りました。  あまりもの愛おしさに、神はその星に触れてしまいます。するとどうでしょう。星は大きく揺れ、大地は裂け、火山が噴火し、たちまち天使は姿を消してしまいました。  神は耐えられないほどの悲しみに、涙を流しました。それは大きな大きなしずくです。星に降り注いだしずくは、やがて大きな海となります。一面青く染まってしまった星。そこにはもう命は芽生えないだろう、そして自分が傍にいてはまた同じ過ちを繰り返してしまう。神は悲しみにくれて、その星から離れていきました。  それから長い年月がたちました。それは私たちからすれば、考えられないほどに果てしない時でした。しかし神にとっては、さらに長く永遠にも感じられたことでしょう。なぜなら神は、かつて自分がつくりあげた世界のことばかりを考え、眠ることさえできなかったからです。  来る日も来る日も、まるで恋人のように慕った神のつくった星。神はたった一度だけと、その星を訪れ、ちらと眺めました。  すると、そこにはかつて自分がつくりだした天使に似た灰羽。そして光輪と羽を失った人とが、ひとつの街で暮らしていたのです。なぜだろうと疑問に思った神は、灰羽の一人に尋ねます。彼は神を拝みながら、畏れながら抑揚のある声で語りました。  あの日天使たちは、その翼で空へと逃げました。海ができてからもずっとです。彼らは生き延びましたが、あまりもの長い時間羽を動かしていたため、羽は弱ってしまい灰色の小さな羽となってしまいました。これでは空は飛べません。  地上に落ちた灰羽は、とある街に住み着きます。いつの間にか、海には陸ができていたのです。その街には、光輪も羽も持たない人間が住んでいました。  その灰羽は、彼らが生まれた理由を知りませんでした。そのことを訊ねられると、神はなんだか胸が熱くなりました。  知らない間に、未練からつくってしまったらしい。もしかしたら、あの涙に種が眠っていたのかもしれない。これはうっかりしたものだ、と大きく笑ったのです。  灰羽は弱ってしまった天使なので長くは生きられません。ですから、神は彼らに祝福を与え、成人を迎えるにあたって鳥となる権利を与えました。きちんと祝福を受けられるように、壁で囲い、彼らを守るように取り計らったのです。  神様は満足して、星をあとにしました。もう未練はありません。自分にできることは、彼らが平和に過ごすことを祈るだけ。こうして神は、今でも遠い遠い空の向こうから、私たちを見守っているのです。 おしまい      *  私が話し終えると、スミカさんは驚いたような顔をしていた。そして、思い出したように感嘆の拍手を送ってくれた。いつの間にか目を開けた子供が、大きくあくびをしたので、思わず笑みがこぼれた。  補足として、この話のもととなった繭の夢の話をした。 「私の夢は、暗い空の中に漂う夢でした。でも遠くに青く光る星があったんです。段々と近づいていくと、それは大きな青い球となって、さらに近づくと、このグリの街が見えたんです」 「海の星……」 「はい。なんだか恥ずかしいですね。自分の名前からつくったお話なんて」 「そんなことないわよ。素敵な話だったわ。あなたらしい、あなただけの物語なんだから、凜(りん)と構えてなさい。この話聞かせてあげたら、きっと彼女も喜ぶはずよ」  彼女って誰だろう。訊くと、 「あら、ごめんなさい。そういえば言ってなかったわね。……あのね、このお話を、絵本にしようかと思うの」 「え、そんな! 駄目ですよ。あんまり自信ないですし、あまり面白くないし……」  私がうなだれると、スミカさんは私の額に手を置いた。彼女の手はとても温かかった。 「謙遜しないの。さっきから言ってたでしょう。このお話はひとつのきっかけ。今は、私はこの生活を幸せに思ってるし満足もしてる。でも知りたいという気持ちは、今でも消えることなく心の奥底でうずいているの。こうやって物語を紡いでいけば、いつかそのおぼろげな姿くらいは見えるかもしれない。あなたたちならもっとすばらしい物語をつくれるはずよ。それが本当のことでも、そうでなくてもね」  静かに語るスミカさんからは、それまでの苦悩がにじみ出ていたような気がした。「本当のことでなくてもいい」。それは、まるで知ることを諦めてしまったかのように聞こえた。 「私は知りたいです。たとえわからなくたって、私はずっと答えを探し続けますよ」 「うん。よく言った。若い子はそれくらいの意気込みじゃなくちゃね」  気を取り直したのか、いつものりりしく快活な顔で、スミカさんは立ち上がった。胸に抱いた子供が、楽しそうに笑った。 「それじゃあ、請け負ってくれるね」 「……はい!」  まだ恥ずかしさが抜けないながらも、私は力強くうなずいた。      *  それからしばらく経ち、スミカさんから、例の本が出来上がったとの便りがあった。廃工場に届けられた宅配便の包装を破くと、中からあの『世界のはじまり』を思わせる意匠の本があらわれた。青い海を模した表紙には、私の名前が刻まれており、そして題名は『世界のはじまり』。あの本と同じ題名なんて、なんだかちょっと照れくさい。 「これから会いにいくんでしょう」  傍からのぞいていたミドリが言った。 「うん。案内してくれる?」 「ちょうど、久しぶりに行きたかったところだしね」 「ヒョコはどうする?」 「お留守番でいいんじゃない」  示し合わせたかのように二人は笑った。  子供を授かるのって、こんな気持ちなのかしら。私は、胸に本を抱きしめる。大切な宝物のように。否、これは必ずや私の宝物になると確信できた。 「行こうか」 「うん」  廃工場の朝。今日は皆仕事がお休みの日だ。お出かけ日和とはまさにこのこと。空は雲ひとつなく、新しい出会いを祝福してくれるかのように澄み渡っていた。  ラッカ。まだ話したこともない、『世界のはじまり』を考えた灰羽。彼女のことを思うとなんだか会ってもないのに、心が通じあうような気がする。  オールドホームへの道中。私はミドリの手をこっそりと握る。久しぶりの訪問に、気を緩めてるのか、いつもは嫌がるところが、まったく気づいていない様子。だから、思う存分その幸せな時間を堪能した。  古びた大きな建物が見えてくると、胸がドキドキしてくる。今までいったことのない場所に訪ねることは、なんだか怖くもあり、それでいて楽しみでもあった。いろんな思いが渦巻きぶつかり合い、気が気でなかった。  オールドホームの上の空から、鳥が一羽飛んでいった。私たちの頭上を軽々と飛び越える。私はふと足を止めて振り返った。鳥は壁へと向かって翼を広げ風を切る。やがて壁を越えると、その影は見えなくなった。 「どうかした?」 「ううん、なんでもない」  再び歩き出す。ミドリは、なにか不思議なものでも見るかのような目をしていた。手をつないでいることが自然のようになっていたのを、私は内心ほくそ笑んだ。  私は鳥に勇気をもらったような気がした。いつか鳥になって、壁の向こうのことを知るときがくる。そのときまでは楽しみはおあずけ。だけれども、できることはいくらだってある。  わからないからこそ、知りたいと思う。知りたいから、空想し物語は生まれる。それは、知らない今だからこそできること。新しい出会いはきっと新しい物語を生み出すはず。そんな未来に心躍らせずにはいられなかった。